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安曇野と千国街道 ~ AUG,2025 ~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 12 分前
  • 読了時間: 4分

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糸魚川から南下し白馬・大町へと続く道は“塩の道”と呼ばれ、古くから塩や海産物が運ばれていました。松本藩は番所を設けて運上税を取っていましたが、資料館には山道を辿って塩を運ぶ人の銅像が建ってました。上杉謙信が武田信玄に塩を送ったのもこのルートだったようですが、有料だったのか無料だったのかは定かではないとのことです。 


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塩の道は千国(ちくに)街道といいますが、平将門を滅ぼした藤原秀郷(俵藤太)の息子、藤原千国に由来するようです。秀郷の子孫は奥州藤原氏や関東で土着した小山氏、藤姓足利氏、九州に渡った大友氏や少弐氏、伊賀氏や西行と全国に散らばり個性的です。千国の足跡は不明ですが活躍した頃は10世紀後半であり、丁度摂関政治の確立期で優良耕作地の荘園化が進んだ時期と重なり、地方官か荘官として当地に来ていたのかもしれません。

 













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番所のある小谷村とその南にある白馬村のあたりは千国荘が置かれ白河上皇が保有する六条院領となり、その南、大町市を含む安曇野の多くは仁科荘とされ伊勢神宮領となり、それぞれ開発が進みました。小谷、白馬、大町、安曇野を含む安曇郡には、古代からある社や荘園設立に伴い勧請された神社を含め、神々の交差点の如く並んでます。概略古代北九州から渡ってきた海神族(わだつみ)系統のもの、諏訪大社(主祭神建御名方神-タケミナカタ)由来、そして皇室・伊勢神宮に由来するものに分類できます。

 

千国諏訪神社
千国諏訪神社

小谷から白馬への塩の道沿いに諏訪神社が並んでます。

 










切久保諏訪神社
切久保諏訪神社

上記建御名方神(タケミナカタ)は出雲の大国主命と古志(越)にいた沼河比売(ヌナカワヒメ)の御子ですが、何らかの理由で千国街道を南下し諏訪に向かったようです。どちらも千国荘が出来た頃に諏訪大社下社から勧請されました。

 







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荘園主が皇室、伊勢神宮だからでしょうが、伊勢神宮系列の社も並んでます。白馬の神明社は仁科一族(沢渡氏)が建てたものになり重要文化財に指定されてます。

 







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国宝指定されている仁科神明宮は平安時代(仁科荘)以来、今日に至るまで営々と式年遷宮が続けられています。本家の伊勢神宮ですら戦国時代に一時期中断していましたので、大変貴重なお社です。但し、1636年(寛永十三年)以降は新造ではなく、修造をしながら続けてきました。前回は2019年(令和元年)であり、次回は2039年(令和三十一年)に行われます。

 


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穂高神社の社殿には船が飾られています。安曇族は筑紫を起源とする海洋部族でその後全国に散らばった様ですが、信濃のそれは糸魚川のヒスイを求めて姫川を遡上した集団とする見方もあるようです。車で走っていると、白馬のあたりから姫川は北に流れており、大町市の高瀬川が南に流れ梓川に合流するところから、その間に分水嶺があるのがわかります。古代安曇族は山間の姫川流域から山を越えて安曇野の平野部に定住しましたが、けして海を忘れることは無かったのでしょう。 


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似たような話ですが、水軍で有名な九鬼氏はお家騒動で志摩から内陸の三田藩に転封となりましたが、城のそばに水練用の池を造り船を浮かべてました。海への憧憬恐るべしです。

 








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仁科氏は諸説有り、安曇氏を含む古代豪族の末裔とか、“桓武平氏繁盛流”とも見られてます。前者なら仁科荘ができた平安時代と古代の間にある数百年がどう繋がっているのか謎であり、後者だと主に常陸で展開した平氏と同族という事になりやはり経緯が気になります。

 




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室町期に建てられた菩提寺の霊松寺に寄ると、本堂の屋根に揚羽蝶の紋が有ったので平氏を名乗っていたと思われます。

 













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この紋は伊勢平氏(平清盛一族)が多く使っていましたが、ドラマを見ていると織田信長の陣羽織に翻ってたりします。織田氏も平氏を名乗ってました。

 
















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武田信玄は信濃侵攻にあたり、子弟の多くを主要氏族に養子として配置しましたが、五男盛信を仁科氏に養子として送り込みました。猛将仁科盛信は、十倍以上の兵を率いる織田信忠5万の軍を高遠城で一手に引き受け、最後の一兵迄戦い自決しました。信玄の跡を継いだ勝頼はその一年前に盛信を安曇野の地と兼任する形で高遠城主にしていましたが、諏訪・甲斐への玄関口に盛信を配置したのは慧眼であり、多くの一族・郎党が裏切る中で一服の清涼でした。

 




























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平安末期、仁科氏が納めた千手観音立像は重文に指定されており、大町市山深い覚音寺にあります。悪路に揺られご本尊を拝みに訪れましたが、千曲市の長野県立歴史館に夏季企画展で貸し出されているとの事。ご住職から『残念ですねぇ、明日戻るんですよ。ご苦労様です。』と労いの言葉を頂き、主の居ない仏壇に手を合わせ帰りました。何事も縁であり、又来なさいという仏慮でしょう。出来れば、道路の補修をお願いしたいと思います。 


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若一王子神社は鎌倉時代、仁科盛遠が仁科荘鎮守として熊野権現を勧請しました。鳥居と江戸時代に建てられた三重塔のコントラストは珍しいですが、日本の神仏習合をよく表してます。長野県は廃仏毀釈の影響は大きく、特に松本藩は多くの寺院が廃寺に追い込まれましたが、よくぞ残してくれました。

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