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東国三社詣で ~FEB,2025~


忍潮井と息栖神社
忍潮井と息栖神社

鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の三社は東国三社と称され、江戸時代には三社詣が随分流行った様で松尾芭蕉、小林一茶、十返舎一九、渡辺崋山他多くの文人墨客が訪れました。自分も行かねばと愚考した次第です。何れも古代からつながる長い歴史が有りますが、気軽に江戸から観光出来る様になったのは幕府の利根川治水事業で河川交通が整備された事が大きい理由です。元々下総・常陸の国境は、今の霞ケ浦・北浦を含む広大な内海(香取海)がありました。 


三社は息栖神社を頂点とし、鹿島神宮・香取神宮を底辺とする直角二等辺三角形の位置関係にあります。利根川の渡し場に面した息栖神社は低地に在りますが、鹿島・香取の二宮は高台に在り、香取海を挟んで対面していました。主祭神は鹿島神宮は建御雷神(タケミカヅチ)、香取神宮は経津主神(フツヌシノカミ)ですが、日本書紀で両柱は大国主命に国譲りを迫り神武東征で活躍し、息栖神社の祭神である久那戸神(クナド)が東国平定を先導しました。

 


貝塚や古墳の位置で当時の香取海の海岸線を推定できますが、内海を取り巻くエリアは食料も潤沢で人口も多く、縄文・弥生・古墳時代の遺跡が多いです。

 








鹿見塚古墳(大生古墳群)
鹿見塚古墳(大生古墳群)

鹿島神宮から北浦を超え直線8km程度の場所に大生(おおう)古墳群あり、近くに大生神社があります。大生は、古代大和から移住した多/飯富(オフ)族が由来と推定されてますが、氏神として建御雷神を祀り(大生神社)、これが鹿島神宮の本宮とも伝わってます。多氏の本貫は大和国十市郡飯富郷ですが、袖ケ浦の一部も上総国望陀郡飯富郷という地名でしたので、多氏は房総半島にも上陸したのでしょう。

 




安房神社
安房神社

脱線しますが、阿波(あわ)の忌部氏は房総半島の先端に移住し、安房の地名の由来になりました。そもそも日本人は海洋民族であり、係る移住のダイナミクスに驚いてはいけないのかもしれません。館山の安房神社には忌部一族のものと称される人骨が忌部塚として祀られてます。

 






香取神宮
香取神宮

さて香取神宮の祭神、経津主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)より葦原中国(あしはらのなかつくに)=地上世界を平定するべく命令を受け降臨しました。鹿島神宮の祭神、建御雷神は自ら立候補してこれに従ったというのが日本書紀に書かれている内容になります。一方古事記では経津主神には触れられていません。古事記は稗田阿礼の口述を太安万侶が筆記したものであり、安万侶は上述多氏の支族でしたが氏神様(建御雷神)を贔屓したのか稗田阿礼の失念なのか背景はよくわかりません。

 


春日大社四殿
春日大社四殿

或いは日本書紀編纂の過程で、中臣氏を礼賛し蘇我氏を卑下するバイアスをかけた藤原不比等による何らかの意図が有ったのかもしれません。春日大社は奈良時代、不比等又は孫の永手が四柱の主祭神を祀り創立しましたが、第一殿には建御雷神(鹿島神)、第二殿には経津主神(香取神)が祀られてます。中臣鎌足には鹿島生誕説もありますが、穿った見方をすれば藤原氏はヤマト統一の神話を乗っ取り、朝廷を主導する正当性を図ったのかもしれません。

 

城山一号墳
城山一号墳

香取神宮から7-8km利根川沿いを下り小高い丘に小見川城址があります。ここには6~7世紀の20数基の古墳が確認されており、城山古墳群と呼ばれています。中でも一号墳(前方後円墳・横穴式石室)の発掘品は三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)や刀剣・甲冑等豊富で、ヤマト王権との深いつながりが窺えます。






三角縁神獣鏡は魏(北朝)の銅鏡で、同じものが3世紀の他の古墳から出土しているのに、何故ここでは6世紀の古墳から出てきたのか謎の様です。300年埋葬せずに代々受け継いだと考えるのが適当かとは思いますが、香取神宮の成り立ちと深く関わる首長かヤマトから派遣された有力者との関わりが想像されます。

 










小見川城址からは鹿島灘に向かう利根川とその向こうに鹿島コンビナートが一望できます。古代は大きな香取海が眼前に拡がっていたのでしょう。

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