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流刑の島 佐渡 ~JUN,2025~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 6月16日
  • 読了時間: 6分

更新日:6月19日


佐渡は855㎢、オアフ島の6割、東京都23区の3割増の面積に、47千人が住んでます。オアフ島には90万人、東京都23区には1千万人が居ますのでかなり人口密度は低いですが、かつて三郡で構成される“国”でした。国衙跡地は未だ特定できていませんが、その一部と思われる遺構が見つかって居り、近所に国分寺も有る事から古代から近隣一帯が中心地だったと想像されます。島は南西から北東に並行する二つの山脈の間に沃野(國仲平野)が拡がり、北東側に両津湾、南西側に真野湾を擁し、島全体に良港が分散しています。


島への官人の流刑は奈良時代から記録が残っており、鎌倉以降武家の世になってからも多くの政治犯が滞在しました。三大有名人は順徳天皇、日蓮、世阿弥とされていますが、文化的素養の高い流人達はその後の佐渡の文化に多くの影響を与えました。草苅神社境内にある能舞台を見ましたが、島内には全盛期は200、今でも30くらい有るとのこと。能を楽しむには一定の教養も必要であり、広く庶民に根付いている点感銘を禁じえません。 


源実朝が甥の公暁に暗殺され、後鳥羽上皇は政治の主導権を鎌倉幕府から取り戻すべく挙兵しましたが北条義時、政子が指揮する幕府軍に敗れ、息子二人(土御門上皇、順徳上皇)と共に流刑に処されました。順徳天皇の寓居は黒木御所と呼ばれ、此処で崩御まで21年間住まわれました。歌人としても著名で百人一首にも選ばれてますが、佐渡でも歌作は旺盛で選者であり先生でもある藤原定家に度々添削・批評を依頼していました。 


崩御後火葬され(真野御陵)、京から従っていた藤原康光が骨を持ち帰り、大原で父後鳥羽上皇と共に葬られています。順徳天皇に佐渡まで同行する様命じられた公家達の多くは仮病を使い断った中、家格の低い康光は最後まで忠誠を尽くしました。

 





小木の海潮寺に、順徳天皇お手植えと伝えられる桜が二株植えられてます。緑に勢いがあり、来年も美しい花が咲きそうです。

 








後鳥羽上皇は穏やかで避戦的な兄の土御門天皇を早々と退位させ、好戦的だった弟の順徳天皇を愛し即位させました。承久の乱後幕府側は後鳥羽-順徳の血統を避け、後鳥羽天皇の甥(後堀河天皇)を即位させましたが、その後継の四条天皇は御所で遊んでいる最中に転倒し満十歳で崩御し、天皇の後継問題が再び起こりました。候補者は佐渡流刑後生まれた順徳上皇皇子忠成王と、土御門上皇皇子邦仁王の二名でした。幕府は承久の乱で消極的だった後者の系統を選び邦仁王は後嵯峨天皇として即位しましたが、この方が以降持明院統と大覚寺統による両統迭立状態を作り、更に南北朝分裂を齎す事となります。 






藤原定家の子孫は歌の家として栄えましたが、曽孫の京極為兼は和歌の流派“京極派“として活躍する一方、持明院統系公家として伏見天皇に仕えました。朝廷の権威復活を目指す政治活動が露見し佐渡に流され、禅長寺に6年寓居し京に戻りました。彼はその後も王政復古を目指す活動を続け土佐に再び流され、その後京に戻る事は叶わず河内で薨去しました。 




同様に持明院統系公家の家に生まれた日野資朝は父俊光と絶縁し、大覚寺統の後醍醐天皇に従い正中の変で幕府に罰せられ佐渡に流されました。彼は守護代本間氏に幽閉されましたが、後醍醐天皇が再起した元弘の変が起こっいいた際、長崎高資の強い進言により処刑されました。一旦流刑とされたのに8年後別件で死罪となったのは現代だと“一事不再理”に反しますが、それだけ幕府に余裕が無くなっていたという事でしょう。妙宣寺は当時本間氏居城だった雑太城跡に建ち、資朝の墓はツツジに囲まれてました。当寺は佐渡で唯一五重塔を有しますが、相川の篤志家により醍醐寺のものに模して文政八年(1825)に建てられましたものです。佐渡には日蓮宗のお寺が多いですが、ここも佐渡で初めて日蓮の檀那になった日得上人が始めた阿仏房を発祥としています。 


因みに本間氏は戦国末期、上杉景勝に滅ぼされますが一族の一部は上杉氏に仕え、会津や米沢に移りました。江戸期に入り、酒田に移り豪商となった本間家は庄内藩の御用商人として辣腕をふるい、「本間様には及びもせぬが」と謳われたのをご存じの方は多いでしょう。戦後ゴルフクラブに手を出しましたが高そうで小生は使った事はありません。

 







日蓮が蒙古襲来の危機に際し、立正安国論を奉じ真言宗や浄土宗等を排斥し、執権北条時宗に訴えたのは有名な話ですが、元寇が来るまでの2年5か月間佐渡に流されました。日蓮らしいと思うのは、佐渡に来て早々に各宗の僧と問答して論破していったそうですが、根本寺の三昧堂がその舞台でした。

 




元寇来襲が現実となり、日蓮は赦免され元寇退散の祈祷を依頼されますが、他宗もやるのなら自分はやらないと断り、その後身延山に籠る事になります。実相寺には赦免700年の記念塔が置かれています。

 


















観阿弥・世阿弥親子は足利義満の保護の下、能を舞台芸術として確立しましたが、6代将軍義教は世阿弥を嫌い迫害の末佐渡に流しました。世阿弥の配所は佐渡市役所敷地にかつて有った万福寺ですが、彼の書いた謡曲集には途上長谷寺に立ち寄り、観音像を参詣した事が書かれてます。世阿弥の晩年はその後謎で、京に戻ったとも言われてますが、彼の著書や実績が脚光を浴び評価されるようになったのは明治以降の事です。 


佐渡で能が盛んになったのは初代佐渡奉行の大久保長安の影響だそうです。佐渡の金は平安時代より砂金ベースで産出されてましたが、甲斐で鉱山開発の実績が豊富だった長安が本格開発を始め、世界最大級の金鉱山となりました。佐渡は江戸期に入り徳川幕府直轄の天領となり、江戸前期の幕府財政を大きく潤しました。





小木港のそばにある木崎神社は、大久保長安により勧進され、荻原重秀に造営されたとのこと。大量の金が小木港から出荷された事から輸送安全を祈願されたようです。荻原重秀は綱吉の時代に活躍した勘定奉行ですが、若い頃に佐渡奉行に赴任し金の増産や石高の見直しを行い、佐渡奉行所の財政を好転させました。両者は晩年幸せではなく、長安は家康の寵を失い、中風で死去した後に不正蓄財が発覚し一族の多くは切腹し、重秀は将軍が家宣に変わった後に新井白石との政争に敗れ失脚しました。あまりに多くの金を見ると不幸になるようです。 


佐渡は冒頭人口が47千人と記しましたが、1960年に11万人いた人口は急速に減り続けてます。昨年7月に漸く佐渡金山が世界遺産に登録されましたが、金山に限らず多くの観光資源(朱鷺も忘れてはいけません)に恵まれているにも関わらず、それらを連携し多様な魅力を発信する機能や努力に欠けているようにも見えました。佐渡島は日本海や日本列島の成り立ちと深い関わりがあり、島の北東端にはまだ大陸縁にあった頃の火山活動の痕跡(大野亀、二つ亀)が残り、丁度トビシマカンゾウの花が咲き乱れてました。  


佐渡の酒を飲み比べましたが、真野鶴が美味しかったです。もういい齢なので向上心は余り無いですが、“幸醸心”には心打たれ、タオルと純米吟醸を買いました。

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