生き延びた房総平氏 相馬 ~ JUN,2025 ~
- 羽場 広樹
- 5 日前
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更新日:21 分前

原町(現南相馬市)にある相馬太田神社は、相馬重胤が鎌倉末期、守谷城(現茨城県守谷市)から一族郎党を引き連れ移住した際に建てられました。現在の福島県相馬地域は元々源頼朝により奥州討伐の論功で千葉常胤に与えられたもので、常胤の次男で下総国相馬郡を領する相馬師常がこれを引き継ぎました。重胤は師常の五代下った孫に当たりますが、以後明治維新に至るまで相馬氏は福島県浜通りの北部を支配しました。因みに福島県相馬郡は明治29年に郡の統廃合で出来た“新しい”名前であり、元祖は下総国相馬郡(小貝川以西の茨城県・千葉県北西部)という事になります。こうした背景が有り、相馬市と流山市は姉妹都市になっています。

相馬氏は千葉氏の一族であり、同じく妙見菩薩(北極星・北斗七星)を信仰してましたので、重胤は下総から同じ神様を分祀し相馬太田神社を建てました。有名な“相馬野馬追”は、当社と相馬小高神社、相馬中村神社の三社の祭礼になります。相馬小高神社は相馬氏が当初本拠地とした小高城跡、相馬中村神社は江戸期以降の本拠地である中村城跡にあります。騎馬軍はそれぞれ三社から編成されますが、祭礼に出席された方の話では南相馬の方の騎馬隊が隊列整然として立派だそうで、成程南北朝・戦国期を生き抜いた小高城近隣の方が相馬の魂を受け継いでいるのではと想像してしまいました。実際に観戦したわけでは有りませんので、次回自分で確かめてみたいと思います。

小高城は重胤が相馬に移り間もなく築城されましたが、南北朝時代に入ると北朝に付いた相馬氏は最初の試練を受けます。南朝の名将、北畠顕家は義良親王を頂き霊山(福島県伊達市)を拠点に小高城を攻め落とし重胤は討死しました。しかし劣勢の南朝は顕家の武勇に頼らざるを得ず、彼は鎌倉、伊勢、畿内等日本国内を広く転戦を強いられ、重胤の孫胤頼は小高城を奪還し危機を乗り越えました。

相馬領の拡張には浜通りと中通りを遮る阿武隈山地が障害となり、基本的には北の伊達領或いは南の岩城領を侵略するしか有りませんが、戦国期岩城氏の一族である標葉氏を滅ぼし南に領土を拡げました。浪江町の正西寺は元々標葉氏家臣が草創し、江戸時代に現地に移転しましたが、以前は華光院という寺が有りました。関ケ原の戦いでは伊達政宗は上杉景勝を攻めるべくここに着陣しました。相馬の当主である義胤は大坂に嫡子を残していた事もあり、家康に対し去就を示さず様子を見る事としましたが、宿敵の政宗が相馬領通過を要請しこれを妨害する選択肢もある中で通過を許しました。戦後家康は相馬氏を一旦改易処分としますが、政宗が本件をもって取りなした結果、相馬氏は江戸期を生き延びる事が出来ました。本家の千葉氏は最後は北条氏に取り込まれ、秀吉の小田原攻めの結果実質滅びました。

旧相馬藩領は現在の新地町を除く相馬市と南相馬市、そして原発事故で未だ広く帰宅困難特定区域に指定される双葉町、大熊町を含みます。相馬藩も他の東北諸藩同様に天明の大飢饉で大きなダメージを受けました。元禄期は9万人弱の人口がいましたが、天明期には1/3の3万余まで激減し、その後人口を戻し財政を好転させる事が藩の至上命題となります。ユニークなのは浄土真宗の布教を許し、真宗門徒の多い北陸他から積極的に移民を呼び込んだそうで1万人くらいの人々を受け入れました。又、二宮尊徳の田園復興策を「御仕法」として積極的に取り入れ併せて2万人程度の人口を戻す事が出来ました(中村城内に二宮尊徳像が有りました)。

相馬藩は寺社仏閣への支援は厚く関係寺社を幾つか立ち寄りましたが、飢饉に関連し水子供養や子供の成長を願う寺社が多いです。

相馬昌胤は元禄期、五歳で亡くなった愛児の都胤を祭神とする都玉神社を建てました。天明の大飢饉の際には餓死者が多く出る中、間引きや嬰児圧殺が横行し藩は社地に子安神社を建て母子安全の祈願所とし、幕府から金を借り養育料を配布しました。

岩城氏の本拠地は現在いわき市の市域になりますが、有名な国宝白水阿弥陀堂があり、岩城則道に嫁いだ藤原清衡の娘徳姫により建てられました。一昨年水害の前に訪れる事ができましたが、平泉の影響を強く受けた浄土式庭園であり、奥州藤原氏の影響がここまで及んでいたのだなと感心します(仏像は幸い水害の影響を免れ、昨年拝観は再開したようです)。

Jビレッジの近く、福島第一原発に近い楢葉町には、同じく徳姫お手植えの樹齢850年の大銀杏の木があり、このあたりが相馬と岩城氏との国境に近いのかなと推測されます。

相馬エリアは縄文・弥生期の遺跡も多く、古くから人の営みが有った事がわかります。特に今回は東北最大の前方後方墳である桜井古墳を見て感慨に耽ってきました。前方後方墳と前方後円墳の歴史的背景は諸説多いですがまだ明確になっていません。所謂“謎の四世紀”は大和朝廷国家統一途上だったと思われますが、この桜井古墳は4世紀後半のものでいくつものドラマが想像されます。少なくとも相馬地域には、ヤマトと対抗する勢力なのか、或いは一目置かれるような首長がいた事になります。

東北大震災で津波に流された請戸小学校を訪れました。当該地域は最大9mの津波が襲い、小学校は二階の手すりぎりぎりまで海水が来ました。幸いな事に災害対策や訓練がしっかりとされていたようで、生徒93名は先生の号令で整列し、予め指定された1km離れた大平山に逃げて無事でした。多くの災害を乗り越えてきた国だからかもしれませんが、混乱の中で秩序ある避難や協力を惜しまない所作に日本人らしい美徳を感じた方は多いと思います。但し、東北で出来た事を、都心で出来るのだろうかと考えると心配ですね。地域社会の繋がりや他人を慮る文化が希薄していく中、日本はそもそもどういう国や社会だったか思い返し、捨てるだけでなくいいものなら元に戻してみたらと思う今日この頃です。
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