遠山氏の故地・恵那 ~ JUN,2025 ~
- 羽場 広樹
- 6月7日
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苗木城は日本一の山城と称され、苗木藩遠山氏1万石余の居城でした。1万石程度の経済力で城を維持する事は難しいですが、城主は苗木遠山氏、遡れば源頼朝による論功行賞で恵那郡遠山庄の地頭に赴任した名門の末裔であり、父祖から受け継いだ城を後世に伝えました。鎌倉幕府により全国に派遣された御家人は多いですが、最初の赴任地にそのまま統治者として存続し、明治維新を迎えた家は極めて珍しく下名の理解では薩摩島津家と当家しか思い当たりません。

木曽川右岸の高森山(432m)の山頂は幾つもの巨岩(花崗岩)に覆われてますが、それらを補うように石垣が組まれており、天守台を組成しています。眼下には木曽川とその支流が造った河岸段丘が拡がってますが、数十万年に渡る浸食作用の痕跡が見えます。この地域は岩や水晶の種類も豊富で、“石の博物館”や大きな断層痕も有り、日本列島の組成に伴う過酷な地殻変動の歴史も辿れて地学&歴史マニアにとっては素敵な場所です。赤く見える建設中の橋はリニア用のものだそうで、トンネルだらけのリニアの車窓ですが、一瞬木曽川と山城を見る事ができそうです。

恵那郡は奈良時代に新設された郡ですが、その頃に出来た正家廃寺は恐らく郡衙と関係がある大型寺院だったと思われ、建物の礎石が多く残されてました。美濃国府は大垣より西の垂井町にあり遠く離れていましたが、古代の東山道、その後の中山道の信濃に抜ける交通の要衝にあり宿場網が発達した地域でした。

遠山氏は元の姓を加藤といいます。加藤景廉は頼朝が挙兵し、その命により山木兼隆の館を襲いこれを討ちました。景廉の長男景朝は遠山庄を与えられ遠山姓を名乗り、岩村に城を築いたのが遠山氏の始まりで、子孫は幾つかの家に分かれて恵那郡内で割拠しました。

景朝は承久の乱で、後鳥羽上皇方で戦い捕らえられた公卿、一条信能を処刑しました。岩村城下にある岩村神社には信能終焉の地と書かれた石碑が建てられています。

美濃は室町期に入ると土岐氏が守護となり、遠山氏は恵那郡に展開する国人として領土が安堵されましたが、戦国期に入り信濃を制した武田のプレッシャーに悩まされる事になりました。武田信玄による西上作戦の一翼を担う秋山虎繁が戦端を開いたのは元亀元年(1570)ですが、恵那を領する遠山氏は織田方の最前線を担い、武田軍の侵攻に伴い城(岩村城他)や領地を明け渡し一族は徳川家康を頼り恵那から退去を余儀なくされました。岩村城当主遠山景行が病死後、信長の叔母にあたる正妻のおつやが一旦“女城主”となりましたが投降した後虎繁の妻となり、3年後信長がこれを奪還した際に磔にされたのは有名な話です。岩村城には13年前に登りましたが遠山宗家の主城は江戸期には大給松平家や丹羽家等譜代大名の小藩が入り、明治維新を迎えました。

遠山氏で生き残ったのは庶流の苗木遠山氏と明知遠山氏であり、苗木遠山氏は上述小藩大名として、後者の明知遠山氏は6500石の旗本として現地明知城跡に陣屋を構えました。

明知遠山氏は明智光秀との関係が極めて深い氏族です。光秀の素性については未だ定かでない事が多いですが、当地(明知)は光秀の有力出生地の一つであり、龍護寺には霊廟が置かれています。ここでは光秀の叔父光安が明知遠山氏を継いだ(養子?)、或いは光安と遠山景行が同一人物であったという解釈で、土岐明智氏の光秀と明知遠山氏の関係を説明しています。土岐宗家は既に斎藤道三により滅ぼされており、その後信長が美濃を領有する中で光秀の家が遠山氏に取り込まれていった背景は容易に想像できます。

遠山といえば“金さん”(遠山景元)をイメージする方が多いと思われますが、彼はこの明知遠山家の分家の出身で南町奉行になりました。数々の著名俳優がこれまで金さんを演じてきましたが、小生にとっては中村梅之助のものが一番印象に残ってます。実物の景元は家督を継ぐまではやはり素行はよろしくなかったようですが、片肌を脱いで見せる彫り物が桜吹雪だったかどうかは定かでないです。因みに景元の父親は永井家から養子に来た景晋であり、遠山家との血縁は無いとの事。

こんなところに龍馬神社?と思いましたが、坂本家の先祖は光秀の娘婿明智秀満だったとの理由で建てられたようです。秀満は光秀死後土佐の長曾我部元親に匿われたとのエピソードがありますが、真偽はさておき楽しくお詣りさせて頂きました。

馬籠宿の郊外の畑に鎌倉期の小さな墓が並んでます。鎌倉・室町期に在った法明寺の敷地跡とのことですが、当寺は源義仲の妹の菊姫が義仲の菩提を弔うべく建てた寺院で、菊姫の墓がこの中にあるそうです。馬籠の次の宿場は信州妻籠であり、義仲の本拠地木曾も近いです。

恵那には大井-中津川-落合-馬籠と宿場町が木曽川に沿って並んでおり、それぞれ風情ある街並みを残してます。中山道は起伏が多く難所が多かったにも拘わらず、東海道より参勤交代や宮家・公家の往来により多く使われました。東海道は関所、橋の架けられていない大きな川、海路等、旅費が嵩む要因が多く避けられたようです。歌川広重は中山道大井宿の版画絵で、雪道を馬で進む二人の旅人を描きました。

大井宿を出て中津川に向かう甚平坂から見た景色がモデルだそうです。似ているでしょうか?
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