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高崎の古墳散歩 ~ JAN,2025

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 1月16日
  • 読了時間: 4分

更新日:1月25日


高崎市南部にある綿貫観音山古墳は奇跡の未盗掘前方後円墳です。発掘作業は昭和四十二年に始まり、膨大な数の埋葬品が出てきましたが注目されるのはヤマト王権との関連性と東アジア(中華王朝の北魏、北斉、朝鮮半島)との深い交流でした。時代は6世紀後半の古墳時代後期にあたり、継体天皇(応神天皇五世孫)の子供達(安閑・宣化・欽明)及びその次の世代(敏達・用明・崇峻・推古及び聖徳太子)に相当します。 


埋葬品は1km程度離れた群馬県立歴史博物館で、同古墳で発見された多くの国宝出土品を鑑賞できます。盗掘されなかった為に膨大な副葬品が見つかりましたが、質的にも百済武寧王陵から出たものと同じ鏡、北斉の銅製水瓶、超一級品の装身具・武具・馬具等から、相当な身分・格式の人物のものと想像されます。

 




現地で古墳に登ろうとしてましたら、隣接する事務所のおじさんが現れ、石室の中を見せてあげると声をかけて頂きました。立派な髭を蓄えた、如何にも古代史が大好きという風貌で同じ人種の匂いがしました。入口は狭く1メートル程の高さでしゃがんで入りましたが、奥に行くと広くなり、高さは二メートル程あり部屋としては十分寛げそうな空間です。驚くのは側面を覆う石積みの精緻さであり、本当に1500年前の技術なのかと驚きますがこれらは5世紀末~6世紀前半にかけて噴火した榛名山の噴火物、角閃安山岩からできているとのこと。又天井石は板状の22トンもの砂岩を15km離れた藤岡市から運んだもので、盗掘を避けることができたのはこの天井が一部崩落していた事で副葬品の多くが埋もれたおかげのようです。


“事務所のおじさん”はお名前は聞きませんでしたが、博学で楽しくお話を伺いました。彼は埋葬者を欽明天皇の皇子ではと考えている様です。欽明天皇陵の石室のデザインと、当墓のものは極めて類似している点、副葬品の内容からして一級皇族でしかありえない点を挙げながら、藤岡市辺りで当時設営された緑野屯倉(屯倉は天皇直轄領)をきっかけに送り込まれた主要皇族だったとの推理です。欽明天皇は継体天皇と仁賢天皇皇女の間に出来た皇子ですが、越前から来た継体天皇が6世紀初期に即位して以降、九州では磐井の乱、関東では武蔵国造の乱と新政権への反乱が起こりました。反乱鎮圧後、屯倉が増え継体朝の基盤は強化されていくわけですが、元々上毛野(群馬県)は畿内と関東を結ぶ主要官道だった東山道の関東への入口であり、従来ヤマト王権の重要戦略拠点でした。


梅山古墳(奈良県明日香村)
梅山古墳(奈良県明日香村)

ところで欽明天皇陵の場所は、明日香村の梅山古墳と、橿原市にある丸山古墳で学説が二分されています。古代の天皇陵に奥さんが改葬されたケースは欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目娘)、天武天皇と持統天皇の二例あり、現在宮内庁は前者梅山古墳を欽明天皇陵と比定してますがここは未発掘で結論は出ていません。





丸山古墳(奈良県橿原市)
丸山古墳(奈良県橿原市)

後者丸山古墳は、1991年に近所の子供が偶然石室への入口を見つけて調べられたもので6世紀末~7世紀初のものと推定されており、“事務所のおじさん”が言ってた石室は丸山古墳のそれを指します。関東の古墳が畿内の古墳検証と相関する面白い事例ですが、今後研究の進捗は要注目です。







観音山古墳で見つかった銅製水瓶は法隆寺のものと同じそうで、聖徳太子は用明天皇の息子、欽明天皇の孫なので埋葬者の甥になり、伯父と甥で同じ水瓶を持ってたのかもしれません。 

 











八幡塚古墳(保渡田古墳群、群馬県高崎市)
八幡塚古墳(保渡田古墳群、群馬県高崎市)

高崎市北部には榛名山山麓に保渡田古墳群があります。ここの出土品は隣接する“かみつけの里博物館”で見る事ができますが、時代的には観音山古墳より100年くらい古く、榛名山の2回の大噴火で埋もれた遺跡になります。ここの面白さは古墳だけでなく、当時の水田区画や王の館(三ツ寺遺跡)まで出てきた事で当時の暮らしや祭祀内容に踏み込める遺物が見られる点ですが、まだ発掘はこれからだとの印象です。火山灰を掘ると何が出てくるのか楽しみで、日本のミニポンペイと言ってもいいかもしれません。時代は五世紀、宋書で出てくる倭の五王の時代になります。 


関東平野、就中上州エリアは興味深い古墳が多く、古墳散歩は引き続き続けたいです。そもそも上毛野氏の始祖は崇神天皇皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)で、“事務所のおじさん”は時代は紀元前後あたりと推定してました。日本史は徐々に古事記や日本書紀への偏見的なアレルギーが薄れ、科学的なアプローチも相俟って古代史の謎解きが少しづつ進みつつあるように見えます。関裕二先生、田中英道先生も相変わらず精力的に本を出されており、その他古代史関連の本も増えてなかなか読書が追い付いていきません(笑)。

 




帰宅途上で藤岡市の妙法寺を詣でました。最澄が巡礼した地だそうで大きな金色の伝教大師像が迫力あります。かつて嵯峨天皇から緑野郡を寺領としてもらい繁栄を誇ったようで、緑野寺と称してました。緑野は上記、緑野屯倉を語源としているのでしょう。

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