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古代を駆け巡る 吉野ヶ里と佐賀 ~ JUL,2025 ~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 7月5日
  • 読了時間: 6分

更新日:7月7日


梅雨空を心配しつつ佐賀へのチケットや宿の手配をしてましたが、いつの間にか空梅雨は明けて杞憂に終わりました。連日38度超の炎天下、吉野ヶ里遺跡を皮切りに佐賀平野を彷徨いましたがここは古代・中世・近代・近世の痕跡が幾重にも重なる日本史オタクには垂涎の地です。夜は夜で佐賀牛と呼子の烏賊目当てにお店を開拓しましたが大満足でした。一方重厚・多様な観光資源を抱えながら、訪問客はまばらであり(個人的には快適でしたが)、佐賀市も佐賀県も対象とする客層や嗜好の焦点が絞り切れていない印象を持ちました。もっとも、この暑いのに古墳や神社を観て歩く人はいないよと言われそうですね。


地球が前回寒かった二万年前は日本と大陸は略地続きで対馬海峡も閉じてましたが、以来温暖化は進み、今から六千年前には縄文海進により佐賀平野の半分以上は海面下でした。当時の入江にあった東名(とうみょう)遺跡は海進が進む8千年前に約700年続いた住居遺跡で、その後海面上昇により放棄されたものです。30年前に洪水対策の調整池工事の際に5m掘った地下から膨大な貝塚と遺物が出てきましたが、規模的にはアジア最大のものだそうです。

 




同じような時期に九州南方の海で大爆発を起こした鬼界カルデラは、現在火山性地震を頻発させている吐噶喇列島の北方に有りますが、その際大量の降灰は九州南部の縄文部落を無住の地にしました。当遺跡は“湿地性貝塚”と呼ばれ、海進により永らく水面下に沈んだ後に粘土系堆積物が溜まり、貝塚から出たカルシウムが土を中和させた為に多くの遺物が腐敗や溶解を停滞させ原形をよく残しました。

 




吉野ヶ里は紀元前5世紀頃からの弥生期の遺跡として有名ですが、東名遺跡から東に7km程度の位置にあり、その連続性に興味がそそられます。この遺跡が有名なのは大きな環濠集落が造られ、外敵の存在や戦争、祭祀を司る王の存在が想定される点であり、倭国騒乱や邪馬台国とその周辺国の存在を思い起こします。





佐賀には紀元前3世紀の徐福伝説があります。徐福は秦の始皇帝の命で、東方の不老不死の薬を求め3千人の若い男女と技術者を率い日本に遠征しました。現在の佐賀市諸富の海岸に上陸したとのことで、近隣の新北(にきた)神社には徐福が持ち込んだビャクシンが境内に植えられてます。当然樹齢2200年という事になります。

 















司馬遷は史記で、徐福は秦に戻らず現地で王となったと記述しており、吉野ヶ里の王との関連がもし有れば面白いです。徐福伝説は熊野や京都他各地でありますが、当時徐福が出発した黄海沿岸からの航路に鑑みると、主に朝鮮半島を伝うルートか直接海流に乗り長崎方面に向かうのが順当であり、玄界灘又は有明海から侵入したという佐賀の徐福伝説には違和感はありません。

 














環濠集落は防御が重視された城郭でもありましたので、吉野ヶ里遺跡は日本百名城として登録されています。

 













佐賀県を東西に貫く背振山地から流れる嘉瀬川と東から流れ込む筑後川は大量の土砂を運びつつ、佐賀平野の堆積は進みました。弥生期以降徐々に南へと陸地は拡がり、現在広大な田園地帯が拡がっていますが、河川に加えて無数のクリーク(農業用灌漑水路)が張り巡らされてます。多くは佐賀藩が整備し米の収穫に貢献したわけですが、地盤は極めて柔らかく、佐賀城の築城では石が沈まない様に底に舟形の木材を敷いて石垣を積んだとのこと。湿地帯やクリークは城下町防御にも役立った事でしょう。 


吉野ヶ里含め、古代遺跡は現在長崎道が通る、北の山裾沿いに点在しています。吉野ヶ里には北墳丘墓と呼ばれる王墓があり、歴代の王が甕棺に埋葬されてますが、多くの銅剣・菅玉・絹が出土しました。古墳時代の到来を予見するような長方形台の墳丘の傍には諏訪大社の御柱を思わせる柱がそびえており、そこから王宮を仰ぐとその向こうに遠く雲仙岳が見えます。古代王国がその後どうなったのか気になります。

 


可能性の一つとしては西に8km程度離れた山裾にある銚子塚古墳が挙げられるかもしれません。周濠が綺麗に残る全長100m弱の前方後円墳で四世紀末の築墳と推定されてます。当地から30km離れた福岡県八女市には磐井氏(筑紫国造)の墳墓と見られる古墳群があり、その中で継体天皇に反乱し鎮圧された首長墳墓はやはり前方後円墳で全長は135mあります。これは九州最大の古墳であり、銚子塚古墳の被葬者もそれに匹敵する実力が有ったものと想像できます。 


銚子塚古墳から西に佐賀大和ICを越えて暫くいくと5世紀半ばの舩塚古墳が見えます。全長は115mの前方後円墳で銚子塚古墳よりも大きく、当該地域が大和朝廷と繋がる権力者により統治されていたものと想像されます。

 






両古墳の間には肥前国の政治・文化の中心地を示す遺跡(国庁・国分寺・肥前国一宮)が並びます。奈良時代には遣唐使として渡海した吉備真備が国司として赴任しました。肥前は現在の長崎・佐賀県を含む大きな国でしたが、特に佐賀県エリアは平安時代に入り広く荘園が設立され国衙領が縮小し、国庁も九世紀中には実質的に機能を失ったようです。

 



欽明天皇紀(6世紀中)に建てられたという與止日女(よしひめ)神社や平安初期に廃寺となった大願寺もこれら当時の政治中心地にあります。佐賀の神社の鳥居は“肥前鳥居”と呼ばれ、鳥居の一番上にある笠木が短くややずんぐりとした印象を持ちます。神社の脇には嘉瀬川が流れてますが、佐賀藩はこの川から城内や城下町に水を引き入れました。ついこの前まで海や干潟だった佐賀平野南部は飲料用として地下水を使えなかったようです。 


大願寺跡は現在神社が置かれてますが、奈良時代の瓦や礎石が多く発見されてます。「日本霊異記」には佐賀の郡司佐賀君児公(さがのきみこきみ)が仏事を行った事が書かれてます。近隣古墳群はこの佐賀氏の先祖が造ったのかもしれません。雨風か火事のせいか容姿がはっきりとしない仏像が飾られており、暫し見とれました。




鎌倉期に入り当地は守護や地頭として鎌倉から送られた御家人が土着しました。頼朝による守護の任命に始まり、承久の乱や元寇を契機に御家人が移住し、南北朝時代は激戦地となります。先般書いた相馬氏の親戚の千葉氏は当地に城を築き、子孫は鍋島藩家臣となりました。少弐氏や一族の鍋島氏、龍造寺氏も御家人由来であり、戦国期の大友宗麟と龍造寺隆信の戦いや島津侵攻のストーリーに心躍る戦国ファンの方も多いでしょう。佐賀城の南側にある小さな公園は旧水ヶ江城の敷地であり、龍造寺隆信の臍の緒が埋められてます。

古代のみならず中世以降南北朝・戦国期を経て江戸期の鍋島藩政、雄藩としての明治維新への貢献、西南戦争や佐賀の乱と、歴史の転換点には必ず佐賀が登場します。今回中世・近世の遺構も訪ねましたが、面白かった話は別稿で扱う事とさせてください。平安末期に宋に渡った栄西のお茶の話を書いて今回の最後とします。背振山地の山奥深く、霊仙寺跡を訪ねました。明治維新で廃寺となりましたが、乙護法堂という一堂が残っておりお詣りができました。 


栄西は宋から帰国時にお茶の葉を持参しました。霊仙寺に滞在した際、山の斜面でお茶を栽培しましたが日本で最初の茶の栽培だそうです。佐賀のお茶は嬉野茶が有名ですが、これは16世紀初頭に明の陶工が持ち込んだとのこと。お茶の話でお茶を濁させて頂きました。

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