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お伊勢参り ~JUL,2025~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 7月12日
  • 読了時間: 5分

更新日:7月18日


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日本史が好きだと言いながら、伊勢神宮にきちんと詣でた事が無い事にどこか引け目を感じて居りました。大きな神社は過去沢山訪れてきましたが、別格の風格とパワーを感じる一方、古代史の深い謎の森の中に足を踏み入れたような気がします。英虞湾の宿を拠点に回りましたが、松阪牛・伊勢海老・伊勢うどんには大変活力を頂きました。伊勢志摩とよく一括りで呼ばれますが風光明媚な景色と美食に溺れつつ、恐れ多くも天照大御神がこちらに落ち着かれた神意につきよく理解できたような気がします。 


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神域に入る前に松阪で高速を降り、国学の四大人と呼ばれる本居宣長に挨拶をさせて頂きました。松阪城内には明治期に移された旧宅と資料館があります。NHK大河ドラマ『べらぼう』の蔦谷重三郎は同じ時代に生きており、彼は宣長の本を取り扱わせてもらえる様松阪に相談に来ていました。ドラマのストーリーはそろそろ田沼の失脚と、白河へ追いやられた松平定信の老中就任、即ち「寛政の改革」へと進むと思いますが、蔦重の「耕書堂」がどう業容転換をしていくのか森下さんの脚本は楽しみですね。さて本居宣長は出演するのか、その場合誰が演じるでしょうか。 


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松阪城は蒲生氏郷が築きましたが、日本百名城に指定され、今尚野面積みの石垣が美しく映えてます。氏郷はこの後秀吉による「奥州仕置」により会津に移封され、会津若松城の近代化を進めました。江戸期は紀州藩の飛び地の主城として明治維新を迎えましたが、どちらかというと三井を始めとする商人の町というイメージが強いですね。 




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本居宣長への挨拶を終え、斎宮へ向かいます。斎宮は天皇の代理人として伊勢神宮に仕える皇女の事で、天武天皇が大来皇女(おおくのひめみこ)を送り、現地に斎宮と役所(斎宮寮)を構え制度として確立しました。以来14世紀前半の後醍醐天皇皇女の代まで、約700年続きました。

 




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日本書紀によると、元々天照大御神は天皇の御所で祀られていましたが、崇神天皇が恐れ多いとしてこれを大和笠縫邑に遷され、次の垂仁天皇皇女倭姫宮(やまとのひめみや)が適地を探すべく巡幸し、ご神託により当地がベストとして現在の内宮が置かれたとのこと。

 





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一方外宮は雄略天皇が丹波に在りた豊受大御神の社を移したもので、この神様は女神のイザナミの尿から生まれたワクムスヒの娘で食物を司る神様になります(古事記)。天照大御神は男神のイザナギの娘で五代後に神武天皇が出た事で皇室の祖先とされてますが、幾つか疑問が湧いてきます。

 




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皇室最高神の内宮の傍に何故丹波の神様を外宮として置く必要が有ったのか?

内宮が出来て外宮が置かれるまでの4~5百年(垂仁天皇~雄略天皇)をどう考えるか?

神宮は通常皇室の祖先を祀る場所だが、外宮もそう見做しているのか?

京都府福知山市にはこの伊勢神宮内宮と外宮が元々置かれていたとする元宮がそれぞれ有ります。丹波から伊勢への移動は何を意味するのか、二柱の神々の関係は何なのか考えても答えはなかなか出てこないですが、丹波にも行かなくてはいけませんね。 


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外宮の参道をあれこれ考えて歩いてたら、マニアっぽいお爺さんが話しかけてきました。この脇道に入ると面白い社が有ると。小さなお社ですが、度会国御(わたらいくにみ)神社といいます。お爺さん曰く、「雄略天皇が丹波から豊受大御神」を移そうとした時に、外宮の脇に移し摂社にした」とのことで、主神は伊勢国造及び彦国見賀岐建與束命(ひこくにみがきたけよつかのみこと)であり、ヤマト王権に征服された当地の豪族かもしれません。何故自分に声をかけてくれたのかは謎ですが、小生もそういうオーラを出しているのか心配になりました。 


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両神宮は別宮含め125社有るとの事で全部詣でる事は難しいですが、市内の主要な別宮は平日だった事もあり駐車スペースも確保でき比較的スムーズに回らせて頂きました。倭姫宮は伊勢神宮の立役者ですが、その割に社はつい最近建てられ大正時代だそうです。






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志摩山中に「天の岩戸」と称せられる洞窟と滝と社があり、真珠王御木本幸吉が参道を整備し近くまで車で行く事が出来ます。傍に脱衣所もあり、名水百選にも選ばれている霊験あらたかな滝に打たれ修行も可能です。

 


















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550m超の朝熊山には伊勢志摩スカイラインが通り、伊勢湾の眺望を楽しむことができます。山腹には6世紀に建てられた金剛證寺の伽藍が連なり、伊勢神宮と共存してきた歴史的な繋がりが感じられます。伊勢湾台風の時に山々の木々が倒れた際に12世紀の経塚の遺跡が発見されました。膨大な量の経筒や副納品が出土し、一部国宝指定されています。

 



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神宮式年遷宮は持統天皇の時代(690)に始まり二十年に一度繰り返されてきましたが、応仁の乱以降室町幕府の財政は悪化し、寛正三年(1462)の内宮の遷宮を最後に約120年行われませんでした。こうした状況を憂い、慶光院の住持だった清順尼、周養尼は勧進を続け織田信長がこれをサポートした結果、天正十三年(1585)終に遷宮は復活しました。金剛證寺奥の宮に至る参道に、両尼の墓があります。慶光院は明治維新後廃寺となりましたが、伊勢神宮は建物を引き取り、神宮施設として保護・管理をしています。 


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上述倭姫命は流れ流れて最後に現在の内宮の地に辿り着くわけですが、その道案内をしたのが猿田彦大神であり、その化身は沖合700メートルほどの海中に沈む興玉神石(おきたましんせき)と呼ばれる岩だそうです。この岩が二見興玉神社の主祭神になります。残念ながら宝暦年間(1751~1764)の地震で現在水面下に沈んでますが、干潮時には上部が見える時もあるようです。有名な夫婦岩はそれを拝む為の鳥居だそうで、朝日と共に愛でるのがいいそうですが最近は日の出は5時前で早いので遠慮致しました。

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次回遷宮は2033年、隣接する敷地はしっかり空いてます。日本人として注目・協力していかねばと心の準備ができました。

  








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ときに内宮の脇を流れる五十鈴川は入ってはいけませんが、見ると職員の方が中に入って大騒ぎしてました。聞くと誰かが眼鏡を落としたらしく、水の中を探して居られました。無事見つかり良かったですが、神聖な川に物は落としてはいけません。気を付けましょう。

 





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志摩の海にはすっかり癒されました。

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