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芭蕉が歩いた庄内 ~JUL,2025~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 7月26日
  • 読了時間: 6分

更新日:7月27日


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前回「奥の近道」と称し、芭蕉の足跡を追い東北を回遊したのは十年前になります。まだ大震災の爪痕が残る中、平泉や松島を訪れた記憶は新しいのですが十年という時間の重みは、次の十年を如何に大切に生きるべきなのか多くの示唆を与えてくれます。前回は時間切れとなり尾花沢から帰京致しましたが、今回は芭蕉が訪れた地の北限である象潟を先ずは目指しました。酒田と象潟を結ぶ海沿いの峠道が一部復元されてますが、猛暑日となり百メートル歩いただけで汗が噴き出てきます。芭蕉が訪れたのは太陽暦で8月初頭であり、少しではありますが気分を味わえたような気がします。当時往路は雨、復路は晴れていました。 


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鳥海山は60万年続くばりばりの活火山であり、特に25百年前の大噴火で大規模な山体崩壊を起こし、今でも惨状は目視できます。この時に崩れた大量の山頂・山腹の土砂は一気に海まで雪崩落ち、芭蕉が愛でた海中に多数の島々が浮かぶ九十九島は元々は鳥海山から滑り落ちてきた木々を乗せた土砂だそうです。

 




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芭蕉がこの地を訪れたのは元禄二年(1689年)の夏であり、蚶満寺の山門からは島々の美しい景色が見えました。それから百年余り経った文化四年(1804年)に大地震が起こり、象潟は2m隆起し、島々を囲んでいた浅い海は消えました。領主だった本荘藩はこれ幸いと新田開発に乗り出し、景観を守ろうとする蚶満寺住職と争う事態となり幕府や朝廷を巻き込む事態となりましたが、それだけ美しい景色だったのでしょう。 


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象潟や雨に西施が合歓(ねむ)の花

西施は越王勾践が呉王夫差を堕落させる為に送り込んだ美女ですが、芭蕉は眠りについた美女に例えて九十九島の景観を詠みました。小生は西施由来の諺ならば、“顰(ひそみ)にならう”が好きです。体調が悪く眉間に皺を寄せた姿が益々美しくなった西施を見て、とある醜女が真似をしたところ益々醜さが増してしまったという話です。人の猿真似は慎めという教訓を分かり易く暗喩しているものの、現代ではルッキズムとか言われて炎上するんでしょうね。 


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酒田に戻りつつ、途中鳥海山をご神体とする大物忌神社に立ち寄りました。ここは里宮で本宮は鳥海山山頂に在り行くのは容易ではありません。北畠顕信(顕家弟)が戦勝祈願したとの案内が有りました。陸奥国府(多賀城)争奪戦では南朝側が敗れ、出羽側に退いてから消息は定かではなくなりますが鳥海山を仰ぎつつ南朝の復権を祈ったのでしょう。 



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近くの丘の上には石原莞爾のお墓があります。彼は東条英機との折り合い悪く、戦争前に中将第16師団長を最後に退役していましたが、東京裁判では東条英機に不利な証言をする事を期待され数度証言を求められました。興味深いのは昭和二十二年五月、病気療養する石原の証言を得るべく酒田に法廷は出張しました。石原は日本の戦争責任はペリーにまで遡り、今般戦争における最大の犯罪者はトルーマンと答えました。毀誉褒貶有るものの、日本の近現代史や戦史を語る上で忘れ難き方です。 


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酒田というとNHKドラマ“おしん”の舞台であり、荘内藩酒井家の財政を担った本間家の繁栄であり、最上川の舟運と北前船で栄えた商都のイメージです。一方9世紀には出羽国府(城輪柵)が置かれ広大な出羽国の政治中心地でもありました。鳥海山と出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)という霊山に囲まれた豊饒な平野には人と物資が集まる環境が整えられていたということでしょう。 



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“五月雨を集めてはやし最上川”

芭蕉は尾花沢を出て羽州街道を外れ、舟で最上川を下りました。途中舟でしか渡れない外川神社でこの有名な句は詠まれました。対岸のドライブインから白糸の滝と観光船と共にお社を眺める事ができました。






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暫く川を下った先に清川という上陸・荷揚げポイントがあり、芭蕉はここから陸路出羽三山を目指しました。荘内藩は抜け荷対策として清川関所を設けましたが、芭蕉が上陸した元禄二年から26年後の事になります。

 






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清川は幕末新選組の指導者だった清河八郎の故郷です。戊辰戦争では荘内藩と官軍との激戦地でもあり、最上川物流の重要戦略拠点であった事が窺えます。

 







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八郎は江戸で幕吏により志半ばで暗殺されましたが、一旦小石川伝通院で葬られた後、母親の強い希望で歓喜寺に改葬されました。清河八郎を大河ドラマで扱うべく地元は町おこしを狙っているようですが、ここも例外なく過疎化のスピードが速く、廃屋の多さに驚かされます。

 





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鶴岡の文豪藤沢周平は「回天の門」で彼の生涯を書きました。又読み返してみたいと思います。

 



















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清河八郎だけではネームバリューは弱いので、大河ドラマにするなら戊辰戦争の荘内藩の活躍や本間家の献身的な支援、西郷隆盛の寛大な処分等を含め、取り扱うスコープを拡げてみてはと思う次第です。近所にはまだ大河ドラマの主役になっていない山形の最上義光や、米沢の上杉鷹山もいるので、手強いですね。上記荘内藩は西郷隆盛のお陰で生き残りましたが、隆盛に心酔した結果酒田市には南洲神社が置かれ、現在鶴岡市と鹿児島市は姉妹都市となっています。会津と長州の確執を考えると、えらい違いですね。


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羽黒山の五重塔は是非見ておきたかったです。現在のものは600年前に再建されたものですが高さは29mになります。木造で最大の五重塔は東寺のもので55mありますが、高い樹木に囲まれた羽黒山の山中でこれだけの建造物が忽然と姿を現すのには深い感銘を受けました。

 

















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五重塔から山道を1時間程登ると、出羽三山神社の本宮に辿りつく事ができます。迷いましたが猛暑の中、山中を2時間往復するのは危険だと悟り、一旦山腹の駐車場に戻り羽黒山頂上の本宮には車で向かいました。流石「西のお伊勢東の出羽三山」と呼ばれただけある立派な社殿でした。 





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芭蕉は酒田と象潟を往復した後、日本海沿いに南下を始め終点大垣を目指しました。小生は鶴岡城内の荘内神社で藩祖酒井忠次候にご挨拶をさせて頂き、帰京する事と致しました。流石徳川四天王の筆頭の家です。本間家の財政支援をバックに近代兵器を整えた荘内兵は、官軍に付いた久保田藩(佐竹氏)の領地深く攻め入り、官軍と最後まで戦いました。明治維新後多くの藩主は東京に移り住みましたが、酒井家は鶴岡に留まり現在もご当主がお住まいです。


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鶴岡には丸岡城址があり、肥後熊本藩54万石が改易となり、荘内藩に預けられた加藤忠広(清正後継)の居館が設けられました。丁度参勤交代で入府する直前に品川宿で改易を申し渡され、そのまま鶴岡へと旅立ったようです。将軍家光からは随分嫌われていたようですが理由についてはまだはっきりとしていません。忠広は一代限りの堪忍料として一万石をもらい、当地で母親と義母を熊本から呼び寄せ22年間暮らしました。清正の遺骨と鎧は隣接する天澤寺のお堂の下に埋められ、忠広と母は鶴岡城に近い本住寺に葬られています。図らずも今年は春に高山で滞在した折り、忠広の嫡子光広の墓所がある法華寺を訪れる機会もあり、近い将来熊本訪問も検討したいですね。


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加藤家は丁重に取り扱われたようです。“窮鳥懐に入れば猟師も殺さず”の諺通り、荘内藩は品格ある政道をしたのでしょう。城の小さな堀では蓮の花が満開でした。

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