館林 ~ Mar.2025 ~

館林は12世紀初頭、藤原秀郷の末裔(佐貫氏)が佐貫荘として立荘したのが由来ですが、室町期には赤井氏が領主となり現在の館林城の原型が造られました。戦国時代には上杉・後北条氏の激戦エリアに在りましたが、秀吉の小田原平定の後、家康の関東入部により徳川四天王の一人榊原康政が同城に入り、城郭と町造りが整備されました。

城の縄張りは城沼に突き出るような形状で、当時は水に浮かぶ様に見えていたのではないかと想像されます。渡良瀬川と利根川に挟まれた低湿地帯であり、近隣は関東ローム層の低い台地を河川が削ってできた沼地が点在しています。両川は20km程下流域で合流していますが、縄文海進のピーク時(約6千年前)には近くまで海岸線が来ていました。

城沼の東端にある善導寺に榊原康政の墓があります。徳川四天王の中でも井伊家と酒井家はそれぞれ彦根藩、庄内藩の領主として明治維新を迎えましたが、本多家と榊原家は転封を繰り返しました。榊原家の場合、館林から白河→姫路→村上→姫路→高田と動きました。最後の転封は榊原政岑が吉原の高尾太夫を18百両で身請けしたのに対し、将軍吉宗が怒り懲罰人事の結果為されましたが、昨年訪れた林泉寺(上越市)に菩提がありました。

姫路藩主榊原政岑と尾張藩主徳川宗春は、質素倹約を重んじた将軍吉宗の享保の改革に反抗したわけですが、政岑は高田に移った後、息子を後見し善政を敷いたようです。

榊原家は前の領主だった赤井氏が開基した善長寺も整備し、保護しました。城沼を正面に置いて建てられており、江戸期は右手湖越しに城を眺める事が出来たでしょう。

徳川家光には成人した男子が3人居りましたが、上から家綱、綱重、綱吉となります。家綱は4代将軍を継ぎますが嗣子が居らず、綱重と綱吉が跡継ぎ候補としてそれぞれ甲府藩主、館林藩主となり次期将軍候補として待機しました。結局綱重、家綱が亡くなった後、綱吉は5代将軍となりましたがそれまで約20年弱の間館林藩主だった事になります。尾曳稲荷神社の手水鉢は綱吉が奉納したものです。

先般訪れた佐野で田中正造の生家を訪れましたが、彼は足尾鉱毒問題で長きに渡り政府と古河鉱業と裁判で争いました。記念館でその生涯を丁寧に説明して頂きました。

正造は雲龍寺に足尾銅山鉱業停止請願事務所を置き、活動拠点としました。雲龍寺には墓石と正造を祀る救現堂が建てられています。

明治政府は渡良瀬川が利根川に合流する手前で遊水池を造り、一旦重金属分を落として川に戻すべく谷中村の住民を強制退去させました。僅かながら当時の遺構が残されており、平時は葦が生い茂る陸地が顔を出してますが豪雨が降ると治水対策で水に沈みます。役場や雷電神社の跡、延命院の墓石を見ながら歩くと明治日本の明暗が見えてきます。

館林には分福茶釜で有名な茂林寺があります。境内では多くの狸が出迎えてくれ、“狸推し”の方は必見です。お土産屋で狸を一体購入しました。

何故信楽焼なのか不思議でしたが、信楽の土が狸を作るのに適しているそうです。
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