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河津の大伽藍『那蘭陀寺』 ~MAR,2025~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 3月20日
  • 読了時間: 3分

河津桜を観るつもりで伊豆の宿を取りましたが、全くタイミングがずれていたようで河津川沿いの桜は略散っていました。出鼻を挫かれ何処に行こうか車を走らせた矢先に、仏像展示館を示す標識が有り、「伊豆ならんだの里 河津平安の里仏像展示館」に導かれました。奈良時代から始まる大伽藍のお寺の跡と仏像群の展示で、ご担当の佐藤さんより丁寧な説明を頂きました。


河津川の支流沿いを暫く遡った山中に在りますが、麓の小さな駐車場に車を置き、急こう配な坂を5~6分登ると展示館に辿り着きました。寺域からは下田につながる伊豆急行の電車が行き交うのが見えます。

 





永享四年(1432年)に起きた大地震により当地域は山津波が発生し、土石流によりお寺と仏像は流され、現在仏が谷と呼ばれる場所に埋もれてしまいました。当時多くの僧侶が居住していましたが、本尊を含め保護された僅かな仏像や、土中から掘り起こされたものを鑑賞する事ができます。奈良時代から続いた那蘭陀寺はこの時廃寺となりました。


 

百年余り後(天文十年/1541年)、湯治に来ていた鎌倉正光院の南禅和尚が当地にお堂を建立し、これらの仏像を祀り以降南禅寺と呼ばれる様になります。丁度北条氏康が家督を継いだ年で、伊豆は政治的には比較的安定していた頃でしょう。





驚くのは仏像群の時代背景であり、奈良~平安前期(8~10世紀)のカヤ材の一本造りの彫像が並んでいる点、2012年の調査では塑像如来像の螺髪が発見された事で、当寺が大規模な奈良仏教寺院である事が明らかになりました。仏像は一般的に飛鳥から平安時代にかけて細身からふっくらとした形状に変わっていきましたが、十一面観音立像(奈良)はいかにもその過渡期にあたる様に見えます。


古代奥伊豆の港といえば谷津港(河津)であり、稲取も下田も有りませんでした。伊豆の国府・国分寺は現在の三島に有りましたが、河津は伊豆のみならず東国への海路の中継拠点として重きをなし、係る大規模な官立寺院が建てられたものと思われます。河津には旧石器時代の遺跡があり、南に60km離れた神津島から運ばれた黒曜石が出てきます。相当昔から人が住み舟運による物流が盛んだったのでしょう(黒い帯状の層は神津島黒曜石)。


那蘭陀寺の仏像群は奈良で制作されたものが運ばれたもので、興福寺で拝む仏像に感じるような国家仏教としての謹厳さを感じます。昨年破損仏を含め26体が纏めて重要文化財に指定されました。一方鎌倉以降、北条時政が願成就院に運慶を呼び仏像を作らせたのをはじめ、関東でも仏像制作が盛んになりました。函南町には地域の方々が長らく大切に拝んできた仏像が『かんなみ仏の里美術館』に集められてます。スーパースターが並んでいるわけではないですが、心温まる仏様達です。伊豆は小さな国ですが、多くの遺物に恵まれてますね。


南禅寺はその後、近所の東宝院という修験宗の寺院に管理されたようですが、所謂山伏のお寺で安定収入が有るわけではなく、貴重な仏像を切り売りしながら維持費を捻出してきました。総計20~30体の仏像が散逸したとの事で、中でも京都西往寺の「宝誌和尚立像」は重要文化財に指定されています。南禅寺にはまだ仏像の断片が多数有り、散逸したものや仏が谷に埋もれているものも多いと思われます。ゆっくり丁寧に発掘作業を継続し、是非後世に伝えてほしいと思いました。




河津には鎌倉末期に建てられた栖足寺(せいそくじ)があり、河童のお寺と呼ばれてます。昔住職が河童を助けて、お礼に甕をもらったそうです。色々な美しい御朱印が並べられており、御朱印収集のお好きな方は是非お勧めします。


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