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修禅寺のカンザクラ ~MAR,2025~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 3月21日
  • 読了時間: 3分

更新日:4月12日

今更ではありますが、町の名前が修善寺であり、お寺の名前は修禅寺になります。元々空海が建てた真言宗寺院だったものが、鎌倉時代に臨済宗に改宗され禅を入れたという説もあるようで定かではありません。この町で源頼朝の弟(範頼)と次男(頼家)は幽閉され殺されました。



範頼は平家滅亡の凱旋後、現在の埼玉県比企郡吉見町に領地をもらい館を構えました。建久四年(1193年)頼朝の不興を買い、修禅寺の塔頭である信功院に幽閉され梶原景時に襲われました。壇ノ浦の戦い(1185)で平家が滅亡し源氏の天下が定まった一方で、頼朝をサポートした三兄弟はそれそれぞれ義経(1189)、範頼(1193)、全成(1203)と追討乃至は処刑という形で命を落としました。



範頼には頼朝の乳母である比企尼の孫娘が嫁いでおり二子いました。比企尼は子供達の助命を懇願し、結局出家する事で赦されましたが、そのうち範円の子が吉見氏を名乗りその後御家人として存続しました。


 




戦国時代ファンならば聞いた事が有ると思いますが、石見国津和野を拠点とした吉見氏はこの庶流であり、大内氏・尼子氏・毛利氏の強豪に挟まれながらも最後は毛利に従属し戦国期を生き延びました。

 









悲劇の二代将軍頼家の最後は有名で、入浴中に北条氏(時政又は義時)の刺客により殺されました。愚管抄(慈円)では残酷な状況が伝えられており、『修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。頓に、えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき』とのこと。素早くうまく殺せなかったので首に縄をつけて急所を押えて刺したという状況です。大河ドラマでは頼家は格好よく戦ってました。


修禅寺の背後にある坂を上ると、暗殺後謀反を起こし殺された頼家家臣十三士の墓、頼家の墓、そして頼家の冥福を弔うべく政子が建立した指月殿があります。鎌倉幕府は、将軍家一族の暗殺や有力御家人の粛清、朝廷を巻き込んだ承久の乱と波乱の連続で始まり、武家政権の試行錯誤の幕開けでもありました。



平清盛に頼朝の命乞いをした池禅尼と北条政子は12世紀からの日本史を変えました。鎌倉幕府を作った主役の北条氏は強固な同族経営と巧みな朝廷操縦策、そして御家人の守護・地頭の全国展開を通じて徐々に実質的な日本政府となりましたが、まだまだ構造的に不安定な要因を多く孕んでいました。14世紀に入り朝廷に後醍醐天皇というある種超人(スーパースター)が登場した結果、比較的短期間で政権は瓦解しましたが、北条氏の政権が130年で終わった要因は一にその正統性(平氏庶流を称するも)、二に行き過ぎた同族支配にあると愚考します。元弘三年(1333年)、鎌倉東勝寺で北条高時以下一族は自決しました。


高時の母、円成尼は一族の子女を引き連れ、鎌倉から伊豆韮山に逃れました。鎌倉に移る前まで北条氏邸宅が有った場所に戻り、円成寺を建立し北条氏菩提を弔いました。北条氏は義時、泰時以降は一族で鎌倉に移住していた様で、鎌倉時代当地は北条氏の父祖伝来の地として一族の墓地とされていたようです。円成寺は室町期に山内上杉家の庇護を受けましたが、15世紀後半以降廃絶しました。


近辺見どころ多く目移りしますが、時政が建てた願成就院で運慶の国宝の仏像を拝み、修禅寺で鎌倉幕府創成期を思い、円成寺で諸行無常を感ずれば北条氏を想ういい旅になりそうです。







桜については詳しくないですが、河津桜は2月末から、カンザクラは3月前半から、ソメイヨシノは3月末からピークを迎えるものと今回学びました。

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