高天神を制するものは遠州を制す ~ MAR,2025 東遠の城めぐり~
- 羽場 広樹
- 3月27日
- 読了時間: 4分

御多分に漏れず、私も3年程前から百名城、続百名城のスタンプを集めてます。スタンプを押せる場所では、嬉々としてスタンプ帳を拡げるおじさんの姿をよく見かけますが(自分を含め)、立地は全都道府県に跨ってますので暇とお金が無いとなかなか捗らない贅沢な趣味です。中には中世から残る山城もあるので、足腰が動くうちに行っておかねばなりません。静岡県の西側を占める遠江は武田・徳川の大激戦エリアで名城が多いですが、掛川城が百名城、浜松城・高天神城・諏訪原城の三城が続百名城に指定されています。掛川城の天守は日本初の木造復元天守です。

信玄の西上作戦は1572年秋に始まり、暮れの三方ヶ原の戦いで勝利しましたがその後体調不良により中断し、翌年春信玄は死去しました。武田家の覇業は勝頼に委ねられましたが、その後約2年間、長篠の戦い(1575年春)で織田・徳川連合軍に敗れるまで勝頼は遠江に深く進攻し、高天神城を攻略し武田氏は最大版図を得ました。長篠以降武田家はすっかり守勢に回りましたが、家康は高天神城を力攻めはせず、補給線を断つべく周囲に六砦を配置しました。

信玄も落とす事が出来なかった急峻な山城であり、本丸から遠州中央部の沃野と六砦の一つ火ヶ峰砦が見えます。同城は武田家滅亡の前年(1581年)まで持ち堪えましたが、補給を断たれ援軍の見込みの無い中、城主岡部元信は城兵を率いて包囲する徳川軍に突撃し討死しました。

横須賀城は家康により遠州中央部に置かれた近代城郭で、海へのアクセスも有りましたが、勝頼による高天神城攻略後はその包囲網の拠点として活用されました。城の石垣は天竜川から運んだ丸い石で積まれて居り、玉石垣と呼ばれています。

そもそも武田と徳川は今川家滅亡に際し、駿河と遠江をそれぞれ保有する密約を結びましたが間もなく反古となりました。信玄は大井川の氾濫で流出し寂れていた臨済宗能満寺を再興し、隣接した丘陵に小山城を築城し遠州攻略の最初の拠点としました。同城はその後孤立した高天神城への補給基地として機能し、武田家滅亡(1582)の渦中の中で落城しました。

信玄の死後、勝頼は同じく大井川西岸に諏訪原城を築き、小山城と並行し遠州攻略の戦略拠点とし活用し、上述高天神城を落城させました。小山城も諏訪原城も築城の名手馬場信春による縄張りであり、甲州流築城術の特徴である丸馬出しや三日月堀を見る事ができます。勝頼は家臣の進言を退け長篠の戦いを強行し、馬場信春を始め多くの将兵を失いました。僅か3か月後諏訪原城は徳川軍により落城し、以後武田家は小山-高天神城の片肺状態で劣勢に苦しみました。浅井・朝倉を滅ぼし、将軍義昭を京から追い出して畿内制圧を加速させる信長に対する焦り、父信玄の多大な名声に伴うプレッシャーといったものが勝頼を悩ませていたのでしょう。まさに築城三年落城一日でした。

武田・徳川の攻防に想いを巡らせつつ、ご近所の城址にも立ち寄りました。相良城は田沼意次が築城しましたが、松平定信は恨みつらみで彼を失脚させ、出来て8年しか経っていない城を徹底的に破壊しました。今年NHK大河ドラマ『べらぼう』では渡辺謙が演じています。本丸跡には牧之原市資料館があり、ちょうどドラマの特集を展示してました。

城の遺構は殆ど残ってませんが、藤枝市の大慶寺に山門が売却され移築されてます。

又旧相良領にある重要文化財大鐘家の門前の石垣は、同じく相良城から移築されたとの事。今は国道150号線から100m程内陸に在りますが、当時は邸宅前を相良から焼津方向に抜ける田沼街道が通っていました。ご先祖の大鐘貞綱は柴田勝家の家臣でしたが勝家との確執あり、秀吉に従い賤ケ岳の合戦で活躍しました。その後旗本として徳川家に仕え、田沼領になる前に大庄屋として当地に土着しました。旗本時代の江戸の屋敷は当時の地図で確認できますが、武士身分を捨ててでも遠州灘を望む長閑な農民生活は魅力的だった事でしょう。

大井川を渡り駿河に戻り、藤枝と焼津の間に旧田中藩の城址があります。形がユニークで略同心円状に三重の堀が巡らされていましたが、明治維新後城址はすべて破却され現在普通の住宅街になっており、本丸跡は小学校になってます。家康が晩年に過ごした駿府城の西側の支城として戦略的位置は高く、幕末まで歴代譜代大名が置かれました。

大阪の役で豊臣家を滅ぼした翌年、家康は鷹狩りをした後田中城に立ち寄り、鯛の天ぷらを食べた後体調を崩し亡くなりました。家康の死因は諸説あるようですが、好きなことをして好きなものを食べ、心配事も無くころりと亡くなったという話には共感できます。きっとそうだったんでしょうね。
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