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筑西の渋い城下町 @笠間 ~JAN,2026~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 3 日前
  • 読了時間: 6分

日本三大○○というのは得てして四つも五つもあるケースが多いですが、“お稲荷”さんも例外ではないようです。伏見稲荷と豊川稲荷は不動の一番・二番ですが、三番手は地域によってまちまちで関東では大凡“笠間稲荷”が三番手に挙げられます。 


そもそもお稲荷さんの主神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で穀物の神様であり、当該地域が旧くから穀倉地帯であったという証左でしょう。お稲荷さんといえば神様の“お使い”である狐で有名ですが、狐を神様本体だと勘違いしている人が一定数いるようで立派な注意書きに苦笑しました。




笠間城は承久の乱の二年前、1219年に笠間時朝により築かれました。彼は下野の名門宇都宮氏の一族であり、以後笠間氏は秀吉の小田原征伐まで当地を支配しました。坂東の名族はたいてい平将門に代表される桓武平氏、その将門を滅ぼした藤原秀郷、そして前九年・後三年の役で活躍した源頼義・義家の何れかを祖としている場合が多いですが、宇都宮氏は藤原道兼の末裔を自称します。道兼は花山天皇を騙して出家させ、一週間だけ関白をやり病没した数奇な人生を送り、摂関家の主流は弟の道長の系統に移り子孫は没落していきました。 


宇都宮氏は有力御家人として地元の下野に留まらず、一族は伊予や豊前(城井氏)の守護へと展開していきますが何れも戦国時代を最後まで生き残ることは出来ませんでした。笠間氏は秀吉が小田原に来る前に宗家(宇都宮氏)に滅ぼされ、宗家は当初先祖伝来の地を秀吉に安堵されたもののその後改易されました。中世の坂東の名族で大名として生き残ったのは、秋田に飛ばされた佐竹と家康次男(秀康)を養子に迎えた結城くらいですが、後者は実質消えたようなものであり、偶にそうした中世の残像の様な旧跡を見つけると感動してしまいます。 


江戸期に入り、そのまま笠間藩の主城として使われましたので近世の石垣が一部残っています。せっかく続百名城に指定されたものの、発掘・整備は未だ途上で気軽に歩ける状況ではありません。標高207mの佐白山(さしろやま)に展開していますが、頂上の天守跡は2011年の震災でまだ崩れたままの状況です。




一方麓の下屋敷跡は公園として整備されており、笠間稲荷や周辺寺院も含め一帯を散策できる様になっています。

 







笠間藩はあの“刃傷松の廊下”事件を起こした浅野家の前任地であり、切腹した浅野長矩の祖父長直の時に赤穂藩に転封されました。真山一郎の歌でも出てきますが、所領五万三千石になります。浅野家は藩祖の長政が秀吉より五奉行の筆頭として甲府領をもらってましたが、隠居した時に家康からもらった所領(笠間)を四男長重が引き継ぎました。宗家広島藩の浅野長晟は家康の三女振姫を嫁にもらい、長重は家康の養女を娶り徳川家との紐帯を深めていきました。筆頭家老の大石家の屋敷跡もあり、仇討ちを成し遂げた大石内蔵助良雄も祖父の代で赤穂に移っていましたが、現在笠間市と赤穂市はそうした縁で姉妹都市になっています。 


城の痕跡はたいしたものは残ってませんが、真浄寺には明治初期に住職が買い取った櫓が置かれてます。明治に入り日本各地の城郭建造物の多くは廃棄され、門は寺院等に一部移されたケースは散見されますが、櫓は珍しいです。

 





笠間氏の痕跡を調べるべく、菩提寺の楞厳寺(りょごんじ)を訪ねました。山門と木造千手観音立像が重文指定されており、門の位置から室町期の寺域がかなり広かった事がわかります。






時朝が作らせた千手観音立像は慶長四年(1252年)の銘があり、慶派のものと推定(運慶の次の世代)されています。

 







近隣に明治初期に廃寺となった石城寺の弥勒堂にも、時朝が宝治元年(1247年)に造らせた弥勒菩薩像が保管されてます。重文指定で国の予算が補填され保管庫を作る事が出来るのはいいことだと思いますが、味気ないコンクリートの建物に入れて気軽に拝観できないのはもったいないと感じる事が多いです。




室町時代の領主、笠間朝貞が中興した鳳台院は近年大伽藍を整備し、石楠花をはじめ花の寺として訪問客が多い様です。

 







下名は寺院経営は詳しくないですが、檀家制度が崩壊する中新たに墓地を整備しeye catchyなモニュメント作る事ができる寺院は限られており、特に近年少子化で無人化する寺社も増えつつあると思います。上記コンクリートの中で眠る重文の仏像も少なからず有る中、比較的余裕のある寺社には信仰の場であると共に、各地域で守られてきた文化や美術を学ぶ拠点になってもらえる様な取り組みが必要ではないかと感じてます。

 












旧稲田町は昭和三十年の合併で笠間市に編入されましたが、ここに親鸞による東国布教の拠点(稲田の草庵)だった西念寺があります。「教行信証」はここで書かれたとのこと。

 






親鸞の祖跡、別格本山だけあり立派な本堂で、中でお参りさせて頂きました。江戸時代の飢饉の影響が大きかった地域だそうで、生産力が戻らない笠間藩の苦境を見て違法ながら真宗門徒の農民を加賀藩や越後から呼びよせていたようです。昨年訪れた相馬でも同じ説明が有りましたが、真宗は特に間引きを禁じていたので門徒の多い北陸側は相対的に人口過剰になりやすく、生産人口の回復に悩んでいた東北・関東への供給源になったそうです。とはいえ加賀藩はこの状況を看過せず笠間藩にも猛抗議し、当寺のご住職が責任を取り自決された逸話が残ります。


平成四年に出雲大社から分祀された新しい神社があるので立ち寄りました。ご本家に負けない大きな注連縄です。近年運営方針で神社本庁と揉め、出雲大社から独立し常陸国出雲大社と称してます。攻めの経営で、敷地内には霊園やギャラリー、レストラン、ガラス工房等もあり参拝ついでに時間を潰せるユニークな場所になってます。 



笠間は常磐道と北関東道が交錯する町で東京からお手軽で日帰りできます。笠間稲荷の門前通りの端にある歴史交流館は、江戸期から続く旅籠を活用しておりなかなか風情がありました。

 







前には郷土の偉人として小野友五郎のレリーフが置かれてます。幕末~明治に活躍した測量のプロですが、笠間藩士から幕臣になり咸臨丸航海長として渡米してます。日本で初めて微分積分を学んだと書いてありますが、和算が到達出来なかった微積分は彼が初めて習得したわけですね。

 

 














坂本九は戦時中当地で疎開されていたとの事で、生前度々笠間に訪れ、結婚式も笠間稲荷で行ったそうです。今日も上を向いて歩くことにしましょう。合掌。

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