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伏見回遊 ~ SEP,2025 ~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 9月13日
  • 読了時間: 6分

更新日:9月20日


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伏見は京都盆地の中でも最も低い場所で、京都市内を流れる桂川と鴨川、琵琶湖から流れる宇治川の合流地点に在ります。三川はその後淀川となり大阪湾に流れこみますが、物流拠点の要衝であり、京都盆地の軟水伏流水が大量に出てくる場所として酒造業も栄えました。当地も何から見ようか迷うエリアですが、鳥羽離宮の辺りから歩いてみます。白河院と鳥羽院は極楽浄土を思わせる豪華な別荘及び宗教施設を造りましたが、安楽寿院はその中の一つでお参りしてみると猫が鎮座されてました。 


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当寺院には大きな火災や地震から護られたご本尊(阿弥陀如来像・重要文化財)があります。残念ながら非公開ですが、写真で見るとふくよかなお顔であり、頼通が建てた宇治平等院の阿弥陀如来像と似ているような気がします。末法思想では末法が始まるのは1052年だそうで、摂関期から院政期にかけて権力者達は極楽浄土を希いました。荘園制度の確立の裏側にある律令体制の崩壊、武士の台頭と社会不安が増える中で、公私の分別が曖昧になっていた支配階級は概して自己肯定感が低く、現実逃避する傾向があったのではないでしょうか。刀伊の入寇と元寇の間に外患が無かったのは幸いでした。

 














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近所の近衛天皇陵は多宝塔でした。近衛帝は鳥羽院の寵妃であり皇后となった美福門院の息子で、僅か三歳で即位されましたが十六歳で急逝されました。皇位は美福門院の意向で彼女の養子になっていた守仁王(後の二条天皇)が有力候補となりましたが未だ幼少だった為、実父の雅仁親王(後の後白河天皇)が“つなぎ”で即位しました。守仁王の実母は生後間もなく亡くなり、祖父の鳥羽上皇が引き取って育てていた為に親子の情愛は乏しく、後白河法皇と二条天皇は永らく確執しました。後白河帝は平家と繋がり、二度の戦(保元・平治の乱)を経て権力基盤を強めていきます。

 









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結局二条天皇は早逝しましたが、生前美福門院の為に造られていた多宝塔に近衛天皇を改葬しました。鳥羽院政の正統な後継者は近衛帝であり、美福門院の養子である自分だという当てつけだったようです。その後皮肉な事に後白河法皇は“鹿ケ谷の陰謀事件”で平清盛により当地で幽閉されました。摂関政治を否定して始まった院政は後白河の代で実質終焉し、その後復活を目指した後鳥羽上皇は承久の乱で敗北し武家政治への流れを確定させました。 


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安楽寿院エリアと鳥羽離宮公園の間に城南宮があります。ここは鳥羽伏見の戦い勃発の場所であり、上述承久の乱で後鳥羽上皇が挙兵した場所でもあります。帝は、流鏑馬の武者揃えを口実に寡兵し北条義時追討の宣旨を出しました。

 





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摂関期、院政期に盛んだった、熊野詣の出発地点でもあったようです。こちらで身を清めて装束に着替えて出られたようですが、旧賀茂川の港にも近く淀川経由大阪に抜けられたようです。境内の周囲は“源氏物語 花の庭”と称し回遊庭園になっており、平安・室町・安土桃山時代の庭園や季節の花々を楽しむ事ができます。 



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伏見というと伏見稲荷ですね。平日の午前だというのに異様な混雑ぶりです。千本稲荷に入ろうか迷いましたが、入口だけで断念致しました。







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静かな場所を求めて、近所の石峰寺に向かいます。黄檗宗であり江戸時代に出来たお寺ですが、ここには釈迦の一生を表す五百羅漢の石造が後背地に並べられてます。晩年住んだ伊藤若冲が下絵を描いたものだそうで、お墓もこちらにあります。お坊さんに「昨日命日で絵を公開してたんですよ」と気の毒そうに言われました。何事も縁ですね。9月10日は覚えておきます。 


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石峰寺から4~5分の距離にある宝塔寺は本堂・多宝塔が重要文化財に指定されてますが、それより古く、源氏物語第33帖「藤浦葉」で描かれました。光源氏の息子の夕霧の中将と雲居の雁が結婚した由来の地で、14世紀に日蓮宗のお寺になりましたが、当時は極楽寺という真言宗の寺院でした。




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藤森神社は15世紀に三社が合祀された経緯あり、日本書紀を編纂した舎人親王、三韓征伐の神功皇后、そして死後天皇の名を追贈された早良親王(崇道天皇)を祀ります。神功皇后の由来は古いものですが、天武天皇皇子で藤原氏と協力した舎人親王と長岡京移転に係る政争に巻き込まれた早良親王は時代背景がまちまちで興味深いです。神社の移設や合祀は色々な背景があるでしょうがじっくり調べてみたいテーマの一つですね。


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近くにある浄土真宗の西岸寺では興味深いお話を伺うことができました。親鸞上人の最初の奥様(玉日姫君)のお墓を拝ませてもらおうと中に入りましたら、ご住職のご厚意によりお堂の中で貴重なものを見させて頂きました。

 


















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親鸞は九条兼実の娘玉日姫(たまひひめ)を妻帯し一子を儲けた後越後に流刑となり、帰京後妻が亡くなったのを知ったという伝説がありましたが、十数年前の発掘調査で骨壺と骨片が発見され話題になりました。お寺に伝わる坐像は火事で煤けてますが、上品で優しい顔立ちです。

 




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これとは別に旅姿の親鸞像を見させて頂きました。そもそも対で作られたものらしく、もう一つは現在鹿児島県甑島のお寺にあるそうです。火事で仏像の由来書が燃えてしまいご住職も知らなかったようですが、先方から連絡があり過疎で甑島の寺も無くなるリスクがある中、元々一対の仏像なのでこちらに寄贈したいとのお話があるとのこと。仏縁恐るべしですが、謎の多い親鸞上人の生き様や歴史的事実が明らかになるのは素晴らしい事だと思います。

 













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御香宮神社も神功皇后を祀る安産守護の社で、鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍が駐屯しましたが戦火には幸い遭いませんでした。臨月のご夫婦が一組来られてましたが、もっと賑わって欲しいものです。

 





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伏見は幕末から明治維新にかけて政治上大きな舞台となりましたが、各藩の藩邸が置かれ、物流拠点に加え情報戦のメッカでもありました。将軍は家光以降上洛をしておらず、西の諸大名は参勤交代で京に泊まる事を忌諱し伏見に藩邸を設けました。

 




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薩摩、長州藩邸跡には位置を示す標識だけ立っていますが、当時の人々がどういう距離感で動いていたのかよくわかります。

 







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幕末の寺田屋襲撃事件は2つあり、最初のものは島津久光が指示し過激派の藩士を襲ったもの(1862)、もう一つは坂本龍馬が伏見奉行に襲われ刀傷を負いながら九死に一生を得たもの(1866)になります。






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寺田屋から薩摩藩邸まで北に直線で1km余りの距離ですが、手負いの龍馬は一旦西に濠川沿いの材木小屋に避難し、川船で運ばれ藩邸に逃げ込みました。

 






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薩摩藩の祈願所とされた大黒寺には上記文久二年(1862年)の際に亡くなった薩摩藩士の墓が並んでます。

 








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すぐそばには時代は異なりますが、宝暦年間(18世紀半ば)に薩摩藩が幕府から命ぜられた難工事の責任者だった平田靱負(ひらたゆきえ)の墓がありました。これは木曾三川(揖斐・木曾・長良川)の分流工事を薩摩藩に請け負わせたものですが、琉球貿易で利益を上げる薩摩藩に対する幕府の嫌がらせだったと言われています。薩摩藩では過労や伝染病、自殺で85名の死者が出ましたが、平田も工事完了後間もなく亡くなりました。

 












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伏見の船着き場には龍馬と、その逃走を助けた妻のお龍(りょう)の銅像が建っています。残念ながら酒蔵に立ち寄る余裕はありませんでしたが、次回の楽しみと致しましょう。

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