会津スタコラ紀行 ~AUG,2026~
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会津には近年出張で来る機会は度々有りました。限られた時間の中では取り合えず鶴ヶ城の美しい石垣を愛でるくらいでしたので、今般会津盆地を一通り巡ってみる事にしました。鶴ヶ城には行きませんでしたが、飯盛山にある白虎隊自裁の地から城を眺めました。

新潟県の巨大河川のうち、阿賀野川(福島県内では阿賀川)は会津を取り囲む山々から集まった河川が広く盆地を潤しながら新潟県境を超えていくもので、会津の豊穣を担保してきました。源流の一つは猪苗代湖からのものですが、明治に入り降水量が少ない安積方面(郡山地域)に同湖から安積疎水が引かれ農業生産量が格段に増加しました。米沢・山形も潤沢な水系(最上川)に恵まれましたが、こうした豊かな盆地を拠点に最上・伊達・芦名といった有力な戦国大名が輩出されました。

古事記には当地は『相津』と書かれてますが、崇神天皇が国内四方面に皇族を派遣した四道将軍の記事に載ってます。北陸道を東進した大彦命(おおひこのみこと)と東海道を東上した建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が合流した地点であり、両将軍を主神とする伊佐須美神社が鎮座されてます。前者は崇神天皇の伯父、後者はその息子で従弟にあたりますが、3~4世紀のヤマト王権統一事業の一環として会津がその勢力に入っていった経緯が窺えます。

境内は数多くの風鈴が飾られてます。社殿が2008年の火災で喪失されたとの事で再建途上でした。早い復興を願ってやみません。

盆地東岸の大塚山古墳は四世紀後半に造られましたが、その後四世紀末に造られた宮城県名取市の雷神山古墳が東北地方最大の前方後円墳です。会津と宮城県南部を結ぶ線が、四~五世紀のヤマト王権北限地だったと想像されますが、実際大塚山古墳からはヤマト王権から臣従の証として配布された三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)が見つかってます。

魏志倭人伝では卑弥呼が魏から鏡を百枚もらったと書かれてますが、現状日本には500枚以上のものが見つかっており、デザインも150くらいに分かれるようで日本で鋳型が造られ量産されたものも多いようです。古墳から出てくる遺物としてHOTなネタの一つですが、今後どういう事実が明らかになるか楽しみです。

徳一は謎の多い方ですが奈良期から平安初期にかけて活躍した法相宗の僧侶で、最澄と三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)と呼ばれる仏教宗論をした事で知られてます。関東から東北にかけて多くの寺院を建立しており、会津では五つの薬師如来を祀るお堂を造られました。

会津盆地の東西南北にそれぞれ慧日寺、宇内薬師、野寺薬師(旧慈光寺)、北山漆薬師が置かれ、真中に勝常寺が建てられました。現在勝常寺と慧日寺(廃仏毀釈で一度廃寺)を除き三寺は廃寺となっており、何とか薬師堂のみ残されてます。西と南はお詣りできましたが、北山漆薬師は入り口から登る階段が土砂で崩れ久しく手入れがされてない状況でした。廃寺のお堂は地元の有志で維持されている場合が多いですが、地方各所を廻っていると偶にこうした朽ち果てつつある寺社に遭遇し心を痛めます。

その他気になっていた寺院の一つですが会津盆地からやや西に外れた柳津にある円蔵寺を訪れました。こちらも徳一が創建したものとされてますが、空海の掘った虚空蔵菩薩を持ち込んだとのこと。白い凝灰岩の上に建てられた寺院は足下を流れる阿賀川の峡谷と共に絵になります。

熊が出るとの看板を見て鈴を鳴らしながら歩かせてもらいました。小生は神社と寺院の御朱印帳は別々に持ち歩いており問題無かったのですが、ご住職は神社と一緒のものには書きませんと仰ってました。そもそも納経をしなければ御朱印はあげませんという厳しいところもあるので特に驚きませんでしたが、日本は元来神仏習合(笑)だし何か拘る背景は有るのかしらとも思った次第。自分は歴史を実感する事を喜びとして寺社とも節操なく訪ねており、御朱印も無理せずご迷惑で無ければ下さいとのスタンスで臨んでます。

勝常寺はかつて大伽藍だったようですが、室町期に再建された薬師堂が残されており重文指定されています。しかしこのお寺が凄いのは多くの平安仏像が残されている事で、特に9世紀の仏像が12体(国宝3体、重文9体)あるのは特筆です。京都、奈良以外でこれほど貴重な仏像が残っているのは大変珍しいと思います。そのうち広目天(重文)は国立博物館に寄託されているようで近々見に行きます。仏像見学は事前予約が必要であり、古代慧日寺跡と併せて次回訪問の宿題としました。

会津の戦国時代は蘆名氏を中心に展開しますが、元は頼朝の挙兵に応じ衣笠城で討死した三浦義明の息子佐原義連(さわらよしつら)の系統であり、奥州合戦の戦功により会津の地を与えられました。蘆名は三浦半島の地名が由来で、半島西岸に現在も地名が残ります(二年前に三浦半島を巡り三浦氏の史跡を回りました)。鎌倉中期の宝治合戦で敗れた三浦一族は二手に分かれ、方や半島に残り、方や会津に移住しましたがそれぞれ北条早雲、伊達政宗により駆逐されました。

秀吉の奥州仕置で伊達政宗は大崎・葛西氏の旧領に移封され、会津に入部したのは蒲生氏郷(がもううじさと)になります。蒲生氏は元は南近江の六角氏被官でしたが、氏郷は信長に従い娘婿となり、その後秀吉に臣従し天下統一事業に貢献し会津92万石の太守に大出世しました。例え豊臣家の天下が揺らいだとしても、最上や伊達の侵攻を阻み、徳川家を背後から牽制できる人物として揺るぎない信頼が置かれていたのでしょう。惜しむらくは息子秀行の器量は父に及ばず、秀吉は晩年に領地を略倍増させ上杉景勝を会津に置きました。興徳寺には氏郷の遺髪を納めた五輪塔が置かれてます(遺体が埋葬されているのは京都の大徳寺黄梅院になります)。

当寺は蘆名氏が鎌倉時代に開基した古刹ですが、秀吉はここを拠点に奥州仕置の指示を出しました。伊達政宗から米沢・会津を取り上げ移封を命じ、蒲生氏郷の人事を出し、太閤検地を発令したのはここからでした。会津藩重鎮のお墓が興味深くあれこれ発見が有りましたが、中でも興味深いのは龍造寺季明(伯庵)の墓碑です。徳川体制下、佐賀藩主が名実共に鍋島家へと移行する中自殺した龍造寺高房の庶子で、家光の時代になっても龍造寺氏再興を幾度も訴え続けました。家光は恐らく煩わしかったのでしょう、異母弟保科正之に彼を預け同家はその後会津藩士(300石)として明治維新を迎えました。

秀吉は晩年になり、氏郷の代役となりうる武将として上杉景勝を会津に置く事とし、既存会津領に庄内地方を加えた120万石の所領を景勝に与えました。既存の鶴ヶ城は会津盆地の東側に位置しやや手狭になってきたので、景勝は盆地中央部に神指城の建設を始めました。同時代の平城としては毛利輝元の広島城と略同じ規模であり、鶴ヶ城(会津若松城)の2倍の広さがありましたが残念ながら関ヶ原の戦い迄には完工できませんでした。城塁の一部が公園として残されてますが、磐梯山と広い田園地帯との組み合わせが感慨深いです。

関ヶ原の戦いの後、天下泰平の世となるにつれ会津の戦略的要衝の位置づけは徐々に変化し、蒲生家の復帰、加藤嘉明・明成親子の統治を経て保科正之が23万石で封ぜられました。彼は秀忠が正室(お江)の嫉妬を恐れ、認知出来ずに保科家に預けられた庶子でした。養家への感謝から生涯保科を名乗り、会津松平家を名乗るのは三代藩主正容(まさたか)からになります。子孫には徳川将軍家への忠誠と武士としての倫理観を厳守するべく書き残し、藩の規律は日本で最も厳しかったと考えられますが、故に戊辰戦争での徹底抗戦と悲劇を生む土壌になったという事でしょうか。飯盛山は300mくらいの小山ですが白虎隊が自刃した場所は100m程度の山腹の見晴らしのよい場所で、彼らは3km弱離れた鶴ヶ城の天守閣から炎が見え落城したと誤認しました。実際は更に一か月持ちこたえました。

飯盛山には寛政期に造られた旧正宗寺の“さざえ堂”があり、上り・下りの二つのスロープを上って下りて三十三観音のお詣りが出来るという優れものです。ユーモアに富んだ建物ですが、複雑でメンテナンスも大変そうなので大事に後世に残したいですね。

鶴ヶ城攻防の最中、野ざらしになった19名の白虎隊士の遺体は近くの妙国寺で仮埋葬されました。

藩主松平容保親子は、開城後約1ヵ月間こちらで謹慎をして新政府の沙汰を待ちました。

会津藩は結局奥羽越列藩同盟の中で最も厳しい処分を受け、下北半島の先端を占める斗南藩3万石への転封となりました。実高は7千石だったらしく現地での生活は凄惨を極め、朝敵の烙印を押されたところからの名誉回復を期して多くの偉人を輩出しました。今年はBSで再放送されてますが、『八重の桜』の放映から13年経ちました。綾瀬はるかの人気は未だ絶大です。

家老の萱野長修(かやのながはる)は、会津戦争の責任はすべて自分にあり主君の助命を嘆願して自刃し、天寧寺の一族菩提に葬られました。手前に少し新しい墓があり郡長正(こおりながまさ)と書かれてますが、長修の次男で小倉藩藩校に留学中自裁した少年のものです。言い伝えでは、郷里の母親に食事への不満を書いた手紙を送ったところ、母親から叱責の返答があり、その書を落として同僚に知られた事が理由との事。

会津藩子弟への「什の掟」(じゅうのおきて)は今でも心を打ちます。現代の感覚では自殺する程の事ではないものの、厳しい規律を守り責任を負う習慣を幼少の頃から学ばせていたのはノブレス・オブリージェに通ずるものがあり、現代の学校教育でも取り入れる価値があると思います。

今回会津には白河で高速を下り、下道経由入りました。会津に入る五つの街道のうち下野街道は日光の手前の今市と会津城下を結ぶもので、会津盆地を南下し南会津エリアに入り氷玉峠を越えると大内宿が現れます。現在宿と土産物屋が並ぶ観光地ですが、江戸時代の宿場町がそのまま維持されているようです。豊臣秀吉も保科正之も吉田松陰もイザベラ・バードもここに立ち寄りました。会津藩の所領は23万石でしたが、別途田島を中心とした南会津5万石は天領で会津藩に租税徴収が委託されていました。

保科正之が本格的に街道を整備しましたが、正之と2代藩主正経は20数回参勤交代で往復したそうです。氷玉峠近くで当時の街道が再現されてます。

そんなこんなで今回も精力的に動きましたが、会津郷土料理(と酒)目当てで市内の割烹旅館に泊まりました。例外なく美味しかったのですが、特に朝ごはんで頂いた“エンドウ豆のわっぱ飯”は格別でした。到底朝から食べきれる量ではなく、余った分はお握りにして昼も楽しませて頂きました。幸いながら会津は一度の訪問では到底理解できませんので又お邪魔いたします。




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