日光の世界遺産 ~ AUG,2026 ~
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日光には三つの主要街道(日光街道、例幣使街道、会津西街道)が乗り入れてますが、その結節点に当たるのが今市です。何れの街道も17世紀に植樹された杉並木で整備されてましたが今でも2・3割残されて居り、その威容から江戸幕府が如何ほどこれらの街道を重視していたかがわかります。例幣使街道は朝廷から東照宮の例大祭に毎年派遣された使節が利用した道で中山道経由高崎から分かれて日光に繋がります。車でしばし厳かな並木道を楽しませてもらいました。

日光街道と例幣使街道が合流する地点に追分不動尊があり、3m近くの石造地蔵が安置されてます。近くを流れる大谷川の洪水で上流から流された石で造られたものとのこと。

大谷川の対岸には会津若松と今市を結ぶ下野街道(会津西街道)の起点もあり、保科正之は参勤交代途上で7回日光に参詣したそうです。

先日訪れた会津では下野街道を車で走りましたが、正之にとって日光は祖父(家康)が祀られる東照宮があるだけではなく、自分を一門として世に出し遇してくれた異母兄の家光の菩提(大猷院)も有り、とても素通り出来なかったことでしょう。

日光の社寺は1999年に世界遺産に登録されました。日光東照宮は随分昔に訪れたような記憶は有るのですが、以来余りにも有名な場所だし観光客も多そうなので敬遠してました。平日とはいえ夏休み期間ということもあり混んでましたが、圧倒的な存在感は流石です。17世紀の建造物が8棟も国宝指定されているのは極めて稀な事であり、精緻な細工と芸術性は当時の日本最高水準の技術が集結したものであり天下泰平を成し遂げた江戸幕府にはそれだけの経済力が有ったという事でしょう。

奥宮には家康の墓所が有ります。彼は生前より死後一年間は久能山で弔い、その後日光で神として勧請する様指示を出しました。

一昨年久能山東照宮の墓所にも訪れましたが、成程よく似てます。久能山での説明では、家康は西に向いて座って埋葬されたそうですが実はまだご遺体は久能山に有るとの説も有るようです。

今では国宝・重文指定の文化財が多く、世界遺産の中心的な存在ですからメンテナンス予算は潤沢なのでしょうが、宝物館も新しくなり境内では各所で修復工事現場が見受けられます。明治維新後、幕府からの経済支援が途絶えた中で、如何にこれだけ大規模な施設が維持されてきたのか興味が有ります。日光山社寺は廃仏毀釈後、東照宮・二荒山神社(ふたらやまじんじゃ)・輪王寺の二社一寺に分かれましたが江戸時代は神仏習合の一社であり、幕府は1万石という大名並みの所領を預けてました。

明治に入り収入が無くなり貧窮しましたが地元や幕臣の有志がこれらを支え、明治三十年に出来た古寺社保存法以降、国の支援制度を受ける事が出きたようです。戦後文化財保護法と名を変えて今日に至り、お陰様で現代の我々は貴重な文化遺産を鑑賞できます。

ここ暫く様々な地方を行脚する生活を送る中で、廃寺・廃社等の増加で失われつつある文化遺産を多く見ます。地方の貴重な重文指定の仏像も、頑丈なコンクリート貯蔵庫に埋もれたまま鑑賞の機会が無いケースも多く、減税議論喧しい昨今ではありますが本件の様な文化遺産保護の話は後回しにされているのではと危惧してます。トインビーは”Civilizations die from suicide, not by murder”と説きましたが、日本人の内なる文化や歴史への理解の喪失を心配する今日この頃です。

日光から中禅寺湖一帯は東照宮が出来る前から大きな寺社群が有ったそうで、男体山(古名:二荒山)を祀る二荒山神社と、奈良時代に勝道上人が開いた輪王寺(起源:四本龍寺)からなる大きな宗教圏が形成されていたようです。日光(にっこう)は二荒山(ふたらやま)の訓読みで名付けられたのが由来のようですね。

輪王寺は後水尾天皇の皇子(守澄法親王、しゅちょうほっしんのう)が門跡として送られて以来、幕末迄十代に渡り主要皇族がこれを務めましたが寛永寺の門跡も兼任しており、普段は江戸にいらしたようです。

幕末門跡として江戸に赴任したのは伏見宮家からでた公現法親王(くげんほうしんのう)で、彼は新政府への反骨心が強く江戸では彰義隊をサポートし、大政奉還後の徳川慶喜の助命を嘆願し、奥羽越列藩同盟の盟主として擁立されました。明治維新後は謹慎の後、北白川宮能久親王となり職業軍人としてキャリアを重ね、日清戦争時に近衛師団長として台湾に出征した際に病死されました。

テレビ等で活躍されている竹田恒泰さんのご実家はこの北白川宮家から出た竹田宮家であり、能久親王は高祖父に当たります。

戊辰の役で奥羽越列藩同盟の最後の意地を見せた会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)は明治に入り日光東照宮宮司を務めました。彼自身は尾張藩支藩からの養子で会津松平家を継ぎましたが、藩祖保科正之の定めた規律と徳川家への絶対的な忠誠心は200年経ても衰えませんでした。徳川慶喜や御三家が次々と容易く新政府に恭順を示す中、最後の武士道を示し日本の近世終了を告げたことは清涼でありけじめでした。今日の徳川宗家当主は彼の末裔になります。

二荒山神社の隣に輪王寺の飛び地の様に建つ寺院は徳川家光の菩提、大猷院になります。歴代徳川将軍は260年間で19回日光社参を行いましたが、この内半分以上の10度訪れたのが家光でした。15人いる歴代将軍は基本的に寛永寺と増上寺に葬られており、例外は神になった家康と谷中霊園に墓所がある慶喜、そして家光になります。

病弱だった大正天皇の為に建てられた旧日光田母沢御用邸を訪れました。皇太子時代に夏場の保養所として建てられたものが、御即位後長期滞在し政務を行う場所として活用され、先の大戦時には上皇陛下が疎開された場所としても知られてます。生活と政務の場として皇居からかなりの人数が移動し働いていたと思われます。樹齢四百年の枝垂桜は未だ隆々としており、建物とのコントラストが美しいですね。来年の桜巡り候補地に入れましょう。

日光エリアは関東の小学生の修学旅行先として昔から人気あるようで、多くの人が行った事があるのにいつ来たか思い出せない場所らしいです。金沢出身の下名は東照宮には昔来た記憶が有りますが、華厳の滝は多分初めてでしっかり拝ませて頂きました。

べたな観光地には行ける時に行っておいた方がいいと思いました。有名な三猿(見ざる聞かざる言わざる)はつまらない事にかかわるなといった洒落ではなく、幼い子供には悪いものを見せたり教えたりせず素直に育てよという教育訓のようです。今年の夏はゲリラ豪雨多く暑さが続きませんが、今回天気に恵まれ爽やかな高原の夏を堪能できました。

二宮尊徳のお墓があるとのこで今市の宝徳二宮神社を訪ねました。小田原藩や相馬藩他、農村地域の復興や経済の立て直しで名を馳せた尊徳先生は今風でいう著名な農業経営コンサルタントでした。最後の仕事は日光東照宮領だった今市地域で、当地で70歳の生涯を閉じました。




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