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南部の飛び地は秋田県に入れられた 大館・鹿角 ~ SEP,2026 ~

9月20日
読了時間: 6分

更新日:9月21日


関東地方はお盆前からだらだらと長い雨空が続いており、ゴルフも旅行も延期や中止が多いです。予約していた温泉宿は前線から遠く離れた青森県の奥入瀬近くにあり、久方ぶりの青空や乾いた爽やかな空気を満喫しました。今年の田舎館の田んぼアートのテーマは弘前の久渡寺(くどじ)に奉納された円山応挙の幽霊画です。 


隣にはそれをモチーフに地元の漫画家石塚千尋さんが描いた令和版幽霊が描かれてます。何故幽霊画が田んぼアートに??と思いましたが、この幽霊画が応挙の真筆だと判明したのは最近(2021年)の事で、モデルは弘前藩家老森岡元徳(もりおかもとのり)のお妾さんだそう。この方は天明の大飢饉に際し賄賂を貰い遊興に耽ったのを咎められ、蟄居の上自害された方で何かドラマが有りそうです。 


泊まった奥入瀬の奥にある宿は二年前に津軽回遊の拠点とした時と同じ蔦温泉です。大町桂月は晩年この宿ですごし、お酒の呑み過ぎで胃潰瘍で亡くなりました(1925年)。度々湯治に訪れていたアントニオ猪木夫妻は、同温泉が桂月の墓を大事に管理している事に感動して隣にお墓を建てました。

 





吉田拓郎の名曲「旅の宿」の詩は岡本おさみが書きましたが、新婚旅行で泊まった当宿がきっかけとの事。上弦の月を愛でる機会は未だ無いですが、時折源泉から出てくる泡を見ながら入る直噴のお湯とレベルの高い食事に感動しており常連になりつつあります。

 









今回は十和田湖を南下し大館と鹿角を走りました。幕府は一国一城令の特例で主城の久保田城(秋田市)の他に横手と大館で城郭を持つ事を許しました。こちらは秋田犬の産地でも有名で、大館城跡の側に秋田犬会館がありこれまでの犬種保存の歴史が学べます。





当該地域は比内郡に属し、地鶏も有名ですね。焼鳥好きのサラリーマンにとっては聖地と言っていいでしょう。都内では絞めたばかりの鳥を空輸して生レバーを出す店も幾つか有りますが、能代大館空港の重要な機能の一つです。

 





平安時代初期までは大和朝廷と蝦夷の境界は出羽は秋田城、陸奥は紫波城(岩手県中部)あたりまででした。前九年・後三年の役や奥州藤原氏の盛衰を経て徐々に荘園化が進み、鎌倉期に入り地頭で派遣される御家人や北条氏による荘園の囲い込みを経て日本への同化が進みました。吾妻鏡では奥州合戦で敗れた藤原泰衡が殺された地名で比内郡が出てくる事から、平安末期までには行政単位として郡が定義されていた事が予想されます。

 
















治承・寿永の乱における論功行賞で比内に赴任した浅利氏は甲斐源氏の一派で、南部と同じ一族になります。同氏は戦国期に男鹿半島・秋田市域を拠点とした檜山安東氏に滅ぼされますが、扇田神明社や独鈷大日神社にその痕跡を残してます。

 




大日神社そばの独鈷城(とっこじょう)は永らく本拠地とされていたようですが、クマ出没の看板が多く、分け入るのは自重しました。秀吉による奥州仕置で当地は安東氏のものとなり慶長三年(1598年)に廃城となってます。2年後の関ヶ原の戦い後佐竹氏が当地に置かれ、秋田氏と名乗っていた安東氏は常陸宍戸に転封となりその後三春に動きました。



市内の玉林寺は浅利則頼が創建し、後に大館を支配した佐竹西家の保護を受けました。久保田藩は奥羽越列藩同盟から脱退し、南は庄内藩、北東部は盛岡藩から攻撃を受け一時期大館は南部に占拠されました。当寺はその後劣勢を挽回し南部勢と対峙した、奥羽鎮撫使副総督の沢為量(さわためかず)卿の陣地でした。

 



現在秋田県に属する鹿角郡は旧南部藩領になります。当地は幕末における米の実高は2万石余りで盛岡藩20万石の1割程度の規模との評価もできますが、中世以来小坂や尾去沢鉱山での金・銅の採掘が盛んで戦国期以来の抗争の地でありました。戦国末期に南部氏が所領化し江戸期を通じ南部領となりましたが、久保田藩とは隣接する大館地域と対峙し絶えず緊張関係にあり、戊辰戦争の舞台となりました。

 









南部藩も広大な藩域を統治する上で一国一城令の例外として、花巻と遠野に城を置いてましたが、鹿角の中心地である花輪にも城郭と呼んでいい館が設けられてました。今は花輪小学校の敷地になっています。

 





秀吉による奥州仕置に対し反抗する大きな動きは、伊達政宗に扇動された葛西・大崎一揆と南部家の家督争いから発展した九戸政実の乱として表れました。政実は南部一族の中でも独立性が強く宗家を継いだ信直に反抗しましたが、秀吉はこれに対して厳しく反応し秀次を大将として大軍を送り込みました。政実の弟である中野康実は信直方で戦いましたが、戦後兄の遺骸を引き取り弔いました。康実の子孫は花輪領主として代々当地を収め、長年寺はその菩提寺になります。 


隣接する恩徳寺には戊辰戦争戦没者の碑があります。花輪を拠点に大館に攻め入った南部藩兵は2千人という規模でした。28万石の会津藩が正規軍は3千人余りと言われており、南部家として大館攻めに参じた強い意気込みが感じられます。





大日霊貴神社は継体天皇が創建し、行基が養老二年(718年)に再建したとのこと。当地には「だんぶり長者」伝説があり、由来の神社の一つになります。だんぶりとはトンボの事でトンボに誘われてお酒が湧き出る泉を見つけて大金持ちになり、娘(吉祥姫)は継体天皇に仕えたというあらすじで、近隣を流れる米代川は米の磨ぎ汁で白くなった由来で名付けられたそうです。 


両親が亡くなり都から戻った吉祥姫が葬られた寺が吉祥院であり、こちらも行基により建てられたとの言い伝えです。畿内を中心に慈善事業を行っていた行基は、聖武天皇から正式な僧侶と認められるまで朝廷から活動を禁じられ迫害を受けてました。流石にこちらまでは来なかったでしょうが、時代考証がどうだという野暮な事は言いません。当地が昔から砂金で有名だった事を考えるとお酒の泉は金だったかもしれませんし、民衆の言い伝えが古代から中世の日本への同化の過程で作られてきたとすれば面白い話でもあります。 


鹿角には4千年前の日本のストーンサークル、「大湯環状列石」があります。一般的に地球の気温は数万年単位で変動しており、前回温暖化のピークは約6千年前で北半球は海水面が今より4メートル程高く「縄文海進」と呼ばれてます。この時期は北海道や東北地域が温暖で過ごしやすく、縄文遺跡が数多く出土します。米代川支流の大湯川の川原石を運んできた事がわかっており祭祀用途と考えられてますが、自然を神として恐れ崇める日本人の心を肌で感じられます。 


前回訪れなかった十和田神社をお詣りしました。こちらは坂上田村麻呂が祠を祀り湖の対岸に渡ったとの伝承ですが、史実としては9世紀初頭に田村麻呂は志波城(盛岡市)近辺で阿弖流為を討ち帰京しましたので事実ではないでしょう。






十和田湖の火山は未だ活火山であり、最新の噴火は延喜十五年(915年)でした。これは日本の有史の中で最も大きな噴火だったそうで、北秋田市にはこの時に起こった泥流で埋もれた役所か寺院の遺跡があり発掘が続いてます。大袈裟に言えば日本のポンペイでしょうかね。

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