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渥美半島 田原から豊橋へ ~ JAN,2026 ~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 4 日前
  • 読了時間: 7分

冬の歴史ツアーはなるべく雪を避けて計画しており、太平洋岸を走るにしても凍結しやすい箱根と伊吹山から雪が流れ込む東海エリアは天気予報を確認しながら向かう事にしてます。今年は西国三十三か所巡礼や四国八十八か所巡礼に着手しようかと考えており、手始めに来月は那智勝浦の青岸渡寺に向かおうと計画してます。伊勢湾岸道路はこれまで結構走ってきたので偶には渥美半島から鳥羽に渡るフェリーに乗ってみようと思い、下見がてら伊良湖岬に向かいました。 


灯台の先には旧陸軍設備も置かれた神島、その向こうには鳥羽市沖合の答志島他が霞んで見えます。伊良湖港と鳥羽港はフェリーで55分で結ばれており、8~9便/日運航されているとの事で使いやすいですね。灯台の近くに、近隣の島に流された天武天皇皇子麻績王(おみのおう)の万葉歌碑が有ります。この皇子は日本書紀では因幡国に流されたとの記述有りますが、万葉集ではこちらに流された事になってます。背景は不明ですが、一説によると壬申の乱で大友皇子側に付いたと言われてます。不謹慎ながら風光明媚でいい流刑地です。今回はここから田原、豊橋に向かいます。 


東大寺が平重衡に焼かれ俊乗房重源はその復興に奔走しましたが、朝廷はその財源として周防・備前国の税収を充てる事にしました。瓦を大量に造る必要もあり、伊良湖に瓦窯を設けましたが、同様に造られた万富瓦窯は岡山県東部にあります。窯業の栄える土地はその後の焼き物文化に綿々と繋がっていくのかもしれません。



田原は渡辺崋山の町と認識してましたが、よくこんな小藩(田原藩12千石)でお城(田原城)を維持できたなあと以前から疑問に思ってました。豊川用水が出来たのは戦後で、それまでは灌漑用水の不足や痩せた土地が農業生産のネックだったようです。豊橋を流れる豊川から渥美半島や蒲郡方面に水を引く大事業だったようで、半島の略先端にある初立池(はったちいけ、灌漑用水ダム)を見ました。 


中世から戦国時代にかけて当地を領有したのは戸田氏で、鎌倉時代に当地の地頭として赴任し深く根を下ろしました。応仁の乱で活躍した戸田宗光は戸田氏中興の祖と呼ばれますが、鎌倉期に開山した長興寺を中興し菩提寺としました。戸田氏は家康の家臣となり一族は複数の大名に抜擢されていきましたが、田原を引き継いだ家に繋がる歴代戸田家の墓が並びます。



戸田氏から家康に臣従後、6家の譜代大名(松本藩、大垣藩、宇都宮藩他)が出ましたが何れも改易されず明治維新まで残りました。中でも田原藩1万石からスタートした田原藩主家は、忠昌の時代に老中(将軍綱吉時代)となり次々と加増を受け、息子の忠真(将軍吉宗時代)も老中となり宇都宮藩78千石の中堅大名に出世し宗家(松本藩)を凌ぎました。忠昌は老中になって3年後、城中で大老堀田正俊が稲葉正休に斬殺された際に正休を成敗した一人です。江戸城の刃傷沙汰は、吉良上野介や田沼意知だけではありません。


戸田家は戦国期を通じて今川氏と松平氏に挟まれ厳しい環境下に置かれましたが、家康が苦しんだ一向一揆鎮圧への貢献をもって譜代家臣となりました。桶狭間の合戦後家康は三河統一を目指し、永禄八年(1565年)今川方の城将が守る吉田城(豊橋市)を包囲し、並行して田原城を攻め落としました。家康の本陣は長仙寺に置かれました。 



田原の町の北側には蔵王山(標高250m)があり、三河湾・豊橋市・田原市そして太平洋と周囲を一望できる展望台があります。家康はここを制し三河を統一し、遠江に侵攻し武田家と対峙しました。






田原城は本丸と堀の一部がこじんまりと残っており、本丸跡には巴江神社が鎮座されてます。田原藩は寛文四年(1664年)戸田忠昌が転封となり、三宅氏が藩主として入部し以後藩主は変わらず明治維新を迎えました。巴江神社の祭神は三宅氏の先祖である備前の南朝忠臣児島高徳と、家康に仕え武功を挙げた藩祖の三宅康貞です。



三宅と言えば江戸藩邸が有ったところが三宅坂と呼ばれており、近隣には現在最高裁判所があり、かつては旧社会党本部も有りました。

 






渡辺崋山は田原藩上士の家に生まれました。一言でいうと碩学の人ですが、幅広い学問を研鑽しただけでなく優秀な画家でもあります。田原藩の家老となりましたが、藩政のみならず当時問題となりつつあった海外列強からのアプローチに対して海防や開国を論じました。

 
















以前古河を訪れた際に鷹見泉石記念館にお邪魔しました。古河藩家老鷹見泉石は崋山とも交流が有ったようで、その像は国宝指定され国立博物館に収蔵されています。絵画としては最も時代の新しい国宝です。

 















崋山は残念ながら“蛮社の獄”で地元田原で蟄居し自裁させられました。20~30年生まれるのが早かったのかもしれません。崋山が蟄居した寓居に立ち寄り、崋山神社にお参りし菩提寺の城宝寺に向かいました。

 





崋山とその息子小華のお墓があります。幕府は崋山の死後24日後に役人を派遣し検視しましたが、墓を作る事を許しませんでした。崋山の名誉回復は江戸幕府最後の年、慶応四年(1867年)まで待つことになります。






豊橋は名城姫路城を築いた池田輝政の前任地です。小田原征伐の後、徳川家康が関東への国替えとなった際に秀吉は輝政に東海道の要衝を与え、吉田城の改修を命じます。今川義元、武田信玄、徳川家康と天下の群雄が争った当城は、輝政により近代城郭に生まれ変わりました。輝政は関ケ原の戦い後姫路に移り、天下泰平の世となり吉田城の戦略的価値は下がりましたが、東海道の宿場町を抱え城下町は栄え今日の豊橋に引き継がれました。 


城跡は豊橋公園として整備が進みますが、続百名城に指定されたとはいえランドマークになるような建物は小さな資料館(鉄櫓跡)しかなく、地元の方々も天守閣建設を要望したり模索されているようです。

 





公園内にある豊橋美術館では足利氏、徳川家康関連の収蔵品特集をやっており、見ごたえありました。家康の書状関連が豊富で、若き日まだ元信と名乗っていた時の貴重な書状は特に感銘を受けました。知る人ぞ知る、三河は足利氏が鎌倉幕府から守護に任命されて以来、多くの足利一族が派生した地でも有ります。細川、一色、吉良氏他数多有りますが、三河の地は中世も見どころ満載です。 


豊橋近郊にごつごつとしたチャートの岩山が有り、行基が開いたと言われる岩屋観音堂があります。山肌には多くの石仏が置かれてますが、その頂上には観音像があり鉄鎖を伝って登ることができました。

 





風が強く足場が悪い中、崖のような階段を上りましたがこういう時に足腰の衰えを強く感じます。中世の山城や階段の多い神社等、いつまで自力で行けるのか怪く鍛錬に努めたいものです。

 

















備前藩主の池田綱政は特に信心が深かった様で、当寺への寄進を怠らなかったようです。曾祖父輝政の故地という思いも強かったのでしょう。







当地域は元々飽海(あくみ)と呼ばれ、平安中期に伊勢神宮の神領とされていました。安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)は元々吉田城内に置かれてましたが、明治に入り軍用地(歩兵第18連隊)となり現在地(豊橋公園南側)に移されました。鬼祭という例大祭があり赤鬼と天狗が躍るものらしく、これは平安・鎌倉期の田楽に由来するとのこと。



“ええじゃないか”は幕末に江戸から上方まで広く民衆がお札を巻き踊り狂った事件ですが、発端は牟呂八幡宮だそうです。お札が降ってきたとの噂を神意として大騒動となり、吉田藩は止めようとしましたが止まらず東西に拡がったとのこと。10月の大政奉還の前後四か月も続いたそうで、封建社会の終焉に際し抑圧されてきた民衆レベルの大きな解放感が感じられます。 


一昨年の夏猛暑の浜松を回遊し、湖西市の本興寺を訪れました。老中久世広之が惣門や奥書院を吉田城から移築し寄付をしており公開されてましたが、広之の息子重之もその後老中となり吉田藩主となりました。吉田藩領は浜名湖西部にも及び、重之以降新居関所の管理も行うようになり、豊橋から浜名湖までの一体感はこういう背景があるのかもしれません。

 



渥美半島や浜名湖辺りを歩くのは、真冬や猛暑でなく陽光穏やかな5月あたりがいいですね。三河は上述天下人の国(足利、徳川)であり、特に中世・近世の見どころ多く豊橋を拠点に回る機会は今後又あるでしょう。豊橋駅前でレベルの高い小料理屋を見つけたのでリピーターになるつもりです。

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