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吉備路めぐり(総社辺り) ~JAN,2026~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 20 時間前
  • 読了時間: 5分

年が明け今年最初の歴史巡りは岡山にしました。広島に住んでいた頃、水島や玉島に出張する機会は有りましたがゆっくり観光をする時間は有りませんでした。山陽道で際立って古代から開けていた当地の事は昔から気になってましたので、わくわくしながら回遊しました。先ずは高いところに上ってみようと、鬼ノ城と呼ばれる古代城塞の頂きに立ってみます。663年白村江の戦いで敗れた大和朝廷は、西日本各地に新羅・高句麗・唐の侵攻に備え幾つか城郭を築きました。百名城ではここと大宰府の大野城、続百名城では同じく大宰府の水城(みずき)、佐賀県の基肄(きい)城、そして対馬の金田城が指定されています。 


縄文海進により五千年前から弥生時代までは現在の岡山・倉敷エリアは殆ど海中で、児島半島は独立した島でした。一方内陸の総社地域は当時から陸地で、古代遺跡(巨大古墳、神社、国分寺跡)が集まってます。

 




早くから開けた地域であり米作の伝来も紀元前6世紀と見られており、記紀や古墳の調査により出雲や北九州エリアに匹敵する有力首長の存在が確認できます。後漢に朝貢(107年)した帥升(すいしょう)が吉備の王だった説や、邪馬台国畿内説では当地が投馬国だったという見方もあります。今回行けませんでしたが倉敷の楯築古墳は弥生時代最大の墳丘墓で2世紀末と比定されており、当エリアはヤマト王権確立以前の日本古代史のメッカの一つです。

 


造山古墳は当該エリア最大の前方後円墳で、自由に上まで登れる日本最大の古墳(全長280m)でもあります。5世紀前半の築墳時日本最大のものでしたが、その後応神・仁徳陵を始めとした百舌鳥古墳群の巨大古墳群が造成されていきました。倭の五王の時代に大和朝廷傘下に入ったと考えられますが、それに匹敵する力を持った首長がいたと想像されます。

 



前方部から出てきた石棺は阿蘇から切り出した凝灰岩で出来ており、同地で制作されたものが吉備に運ばれてきたとのこと。吉備首長の影響力の広さが偲ばれます。

 






造山古墳から西に2km程離れたところには作山古墳(5世紀後半)があり、造山古墳と比べやや小ぶりながら規模は全国ベスト10に入ります。因みに両方とも読みは“つくりやま”になります。

 





両古墳の間には6世紀後半に時代が下りたこうもり塚古墳がありますが、ここからは明日香村の石舞台と同規模の横穴式石室が出てきました。6世紀には全国的に古墳の規模は縮小化していきますが、中四国最大のものであり引き続き吉備の首長が引き続き大きな勢力を張っていたことが想像されます。




岡山といえば桃太郎ですが、このモデルになったのが七代孝霊天皇の息子吉備津彦命(きびつひこのみこと)と言われており、備前・備中の一宮である吉備津彦神社、吉備津神社の祭神です。吉備津神社から詣でましたが、足利義満の時代に再建された本殿・拝殿は国宝指定されている壮大なものです。




吉備津彦は崇神天皇から指名され国内平定を命ぜられた四道将軍の一人で、吉備攻略を担当しました。この際鬼ノ城を拠点とする温羅(うら)という鬼を退治したという伝説があり、桃太郎の話に繋がります。本陣を置いた吉備津神社の前には吉備津彦が弓矢を置いた、矢置石が鎮座されてました。

 



桃太郎にお供したのは犬・猿・雉ですが、犬は犬飼部犬飼健命(いぬかいべのいぬかいたけるのみこと)を表し、五・一五事件で凶弾に倒れた犬養毅首相はその子孫になります。

 


















両社の距離は直線で800mほどしかなく、その間にある“吉備の中山”が備前・備中の国境でした。山中の急な坂を15分程登ると、藤原成親の遺跡があります。鳥羽・後白河上皇の寵愛を受け大納言まで出世しましたが、鹿ケ谷の陰謀で平家打倒の企てが露見し、平清盛により備前に流刑されました。当地に在った高麗寺に住し間もなく亡くなったようで、明治に入り朽ちかけた供養塔が保護され山中に佇んでます。

 


総社の盆地を流れる足守川はかつて毛利・織田が対峙した軍事国境線でしたが、ここに不屈の名将清水宗春が水攻めに耐え忍んだ備中高松城があります。秀吉は堤防を12日間で造り、足守川の水は堰き止められ湖と化しました。元々低湿地帯を利用した堅城でしたが、水面から顔を出した二の丸・本丸はそれほど広くなく、よくここで5千の将兵が生き残れたと感心します。 


秀吉は本能寺の変を聞き、毛利方に宗治の切腹を条件に城兵の命を救うと提案、宗治は隣接する妙玄寺で自裁しました。秀吉はそれを見届け直ちに中国大返しを敢行、明智光秀を討つべく京への道を急ぎました。大河ドラマの主人公は豊臣秀長となりましたが、彼も秀吉に従い参加していました。

 




家康は宇喜多家家臣だった花房正幸を当地に封じ(旗本8千石)、妙玄寺はその菩提寺として保護されました。寺のそばには宗治の家臣達が次々と主君の後を追い、刺し違えて殉死したごうやぶ遺跡があり、その向こうには秀吉が布陣した石井山が見えます。

 




宗治の子孫は秀吉からの仕官の誘いを断り毛利に仕えましたが、毛利家もその功に報いました。関ケ原の戦い後、毛利家は防長30万石弱に押し込められましたが次男景治の家は家老(3710石)として遇され幕末を迎えました。そして維新の功で清水家は男爵を叙爵されました。 




清水宗治は廃寺となっていた備中国分寺を同じ場所に再興しましたが死後再び廃れ、江戸中期増鉄和尚により再々興されました。五重塔は文政~天保年間に再建されたものですが、遠くからでも美しく聳え、備中の田園風景によく合います。

 




水墨画で有名な雪舟は当地で生まれ、幼い頃に入れられた宝福寺があります。雪舟がいた頃から二度焼失し再建されていますが、子供の雪舟が柱に縛られ涙で鼠を描いた仏堂は今も有ります。故橋本龍太郎元首相のお墓が有りますが立ち寄らずに静かに帰りました。

 




岡山城(烏城)は初めてでしたが、旭川を取り巻き聳える黒い天守閣は趣きがあり、対岸に見える後楽園と共に池田家の芸術品です。岡山・倉敷エリアも見どころが多く、今回は総社の近辺を逍遥したものの、宇喜多家や岡山藩といった近世の史跡まで手が届きませんでした。

 





おいしいおばんざいのお店を見つけたので又来ます。

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