破竹の快進撃はここから始まった 新田義貞と少し志村けん ~ JUL, 2026 東村山~
- 7月3日
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更新日:10 時間前

元弘三年(1333年)五月八日新田義貞は生品神社(群馬県太田市)で挙兵、五月二十二日東勝寺において北条氏を滅ぼし鎌倉幕府を打倒しました。たった2週間で四度合戦し、その間およそ130kmを駆け抜けました。

新田軍は旗揚げ時僅か150騎ばかりでしたが、越後・甲斐・信濃の源氏郎党が加わり、利根川を超えて足利高(尊)氏の長男“千寿丸”が軍に加わると更に陣営は増えました。鎌倉幕府は新田討伐軍を急遽編成し鎌倉街道を北上させましたが、結局新田義貞の鎌倉侵攻を許す事となりました。緒戦の2回は小手指原と久米川で行われたもので、現在所沢市と東村山市に跨る地域にあたります。

幕府を実質的に束ねる北条高時は、義貞挙兵の報が出た段階では本件がどこまで深刻なものかは理解できていなかったのかもしれません。2度の敗戦の報を受け、多摩川を鎌倉防衛の死守線として弟の北条泰家に大軍を授け、分倍河原で新田軍を迎え撃ちました。この3回目の分倍河原の戦いが事実上の決戦であり、大軍を擁した泰家は当初優位に戦いを進めましたが、結局義貞に止めを刺すことが出来ずに逆転負けを喫しました。

寡兵をもって大軍を討つ話は源平合戦でも度々見られますし、油断した今川義元が討たれた桶狭間もその典型です。本件については続々と集まる関東武士団が何処に味方するか迷う中で、緒戦の敗退が引金となり新田軍への加勢を勢いづけた点で小手指原と久米川の両戦は重要なマイルストーンになりました。小手指原の戦いの石碑の側には幼稚園があり、園児の歓声で賑やかでした。

近くには白旗塚と呼ばれる小山が見えます。義貞本陣の場所だったとの事ですが、小さな古墳の盛り土にも見えます。

幕府軍は翌日5km程南下した八国山で新田軍を食い止めようとしました。当該丘陵は現在埼玉県・東京都の県境にあり、当時は関東平野を広く望めた様です。

狭山湖・多摩湖を水源として荒川に合流する柳瀬川水系が八国山の麓を潤しており、久米川の戦いはこのあたりで行われたようです。八国山は標高90mに満たない丘陵ですが、その頂きには新田義貞が旗を立てたとされる将軍塚が有りました。

近所を歩いていると勢揃橋なる小さな橋が有りましたが、勝利した新田軍が通過した場所だそうです。住宅街になった700年前の遺跡を辿るのは容易ではないですが、ふとした発見に心は踊ります。

当時関東各地から鎌倉へと通じる道は3通り(上道・中道・下道)有り、義貞は上道をひたすら南下しました。

鎌倉街道上道は7世紀に整備された古代道路の東山道武蔵路と略符合します。大和朝廷は当初、地方行政の区割りを五畿七道と称し、畿内と七つの道に分けてそれぞれ国府を結ぶ官道を設置していきました。武蔵国は最初は東山道に属し(相模国は東海道)、信濃や上野といった内陸地域と繋がってましたが奈良時代後期に東海道へと編入されました。

当地では官道の遺跡として両側に排水溝が掘られた最大幅12mの道路が発見されており、東村山ふるさと歴史館で解説されてます。まっすぐ武蔵国府(東京都府中市)及び相模国府(神奈川県海老名市近辺)まで繋がっていたと考えられます。

徳蔵寺がいつ開創されたか不明ですが、戦国期から江戸初期に中興された寺院で、久米川の戦いの現地に近く鎌倉街道に隣接しています。こちらには重文指定されている板碑(いたひ、ばんぴ)があり、新田義貞の鎌倉侵攻作戦の中で戦死した3名の名前が記され供養されています。

板碑は現代人にとっては馴染みの薄いものですが、鎌倉・室町期に盛んに造られた石造供養塔になります。この元弘三年の供養碑には、2名が分倍河原の戦いで、1名が鎌倉侵攻時に戦死した日付が書かれており、太平記における新田義貞の鎌倉侵攻の事実を裏付けています。

隣接する徳蔵寺板碑保存館にはこれに加えて150もの板碑が展示されてますが圧巻です。

東村山市には北条氏(時頼又は時宗)が開基した古刹正福寺があり、東京都で唯一国宝の木造建築物、『地蔵堂』があります。建物にある墨書から応永十四年(1407年)の建立と考えられてますが、円覚寺舎利殿(国宝)と規模・形式が類似しており、舎利殿も同じ頃の建設と推定されてます。そもそも舎利殿は戦国時代に廃寺となった太平寺の仏殿を移築したものであり、戦乱の世を経て美しい禅宗様式の仏堂が国宝指定され、現代に伝えられている事に感謝を禁じえません。

山門は元禄期のものですが、地蔵堂とのコンビネーションは美しいです。鎌倉まで行かなくても、鎌倉qualityの仏堂に東村山で出会えるというのは穴場と言えるのではないでしょうか。

せっかくここまで来たからにはと、梅岩寺阿弥陀堂の墓石エリアにある志村けんのお墓をお詣りしました。数多くの志村家墓石が並んでおり、ちょっと探すのに手間取りましたが志村家がこの地域で少なくとも江戸時代から広範な地主であり名士の家だった事が窺えます。

古代~中世~近代の痕跡が重なる街道の街には、未だ見ていない歴史の痕跡が多く残ってそうです。東村山音頭でも口ずさみながら寝酒を一杯呑んで志村けんを偲ぶ事にしましょう。合掌。




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