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佐竹はここから始まった 常陸太田 ~ JUL,2026 ~

  • 7月12日
  • 読了時間: 7分

関東平野は広いですが、茨城県北部まで来ると阿武隈山系から連なる山々が迫ります。佐竹は源氏出身ながら源平合戦ではなかなか頼朝に服従せず、西金砂山(にしかなさやま)の山上に籠り頑強に抵抗しました。最後は味方の裏切りで落城しましたが、その後奥州合戦で活躍し鎌倉幕府体制に組み込まれていきます。現在城跡には西金砂神社が置かれ、四百メートル強の山ですが急峻な坂道を上った山上の本殿からは常陸北部の山々の眺望が楽しめます。 


この城は長らく佐竹氏にとって、詰城として維持されました。本城の太田城が優勢な敵に囲まれた時に籠城するための城になります。

 







佐竹氏の家紋は扇に月が配われてますが、奥州合戦時に頼朝と同じ白旗(源氏を示す)を掲げて紛らわしいとのことで、頼朝から白旗の上に扇を掲げるように言われたのが始まりだそうです。5月に秋田市を回遊し江戸期の佐竹の旧跡を回りましたが、佐竹を理解するには片手落ちだと感じ今回発祥の地を訪れました。関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康により秋田への転封を命ぜられましたが、常陸を領していたのは470年間であり江戸時代の270年間よりずっと長いです。





後三年の役で源義家(頼義長男)に従軍した義光(頼義三男)の子息の内、義業は佐竹(常陸源氏)、異母弟の義清は武田(甲斐源氏)の祖となりました。佐竹も武田も常陸の地名を名乗り一旦土着しましたが、義清は近隣土豪とのトラブルや国衙領での狼藉が有った様で朝廷から甲斐に配流される事になり常陸から離れます。義業は母親の父が平清幹(常陸平氏)で常陸北部の所領を相続し子孫は地元で割拠しました。我が国は公家・武家に関わらず、古代より女性親族への相続はよく見られます。平氏はその200年以上前から関東に根付いた先住土豪勢力であり、関東平野は平将門追討に貢献した藤原秀郷の末裔もいましたが、義業は出遅れた源氏の楔を常陸に打ち込みました。 


源平間の婚姻はそもそも前九年の役で活躍した源頼義が平氏棟梁の平直方の娘を室にしており、義家・義綱・義光の三兄弟とその末裔は源平間の婚姻JV(ジョイントベンチャー)の成果と言えます。この際頼義は鎌倉の地と館を直方から譲られ、以後鎌倉は武家政権の聖地となりました。

 








さて佐竹は当初佐竹郷の馬坂城を拠点にしてましたが義業の孫の隆義が太田城を奪取し、その後秀吉の奥州仕置後水戸に移る迄佐竹氏の主城となりました。馬坂城は小さな門柵だけ立てられ殆どが農地(私有地)であり、気軽に見学できる状況ではありません。 





近隣には佐竹寺が有り、坂東三十三観音霊場の二十二番目の札所になります。創建は10世紀に遡りますが、佐竹氏は歴代祈願所として保護しました。当寺には観音霊場詣でをしていた13年前に訪れましたが、当時震災で崩れていた灯篭も綺麗に普及されてました。少々違和感を覚えたのが、境内撮影禁止の看板があちこちに置かれてます。屋外の重文指定の本堂も撮影できないようですが、どういう背景で係る対応になったのか気になりますね。当時お堂の前に並んだ小さなお地蔵様に赤い頭巾が着けられてましたが、今は外されてます。 


佐竹の菩提寺は常陸太田市の市街地北部にある正宗寺です。戦後境内の中で散乱していた宝篋印塔や墓石を集めて13基配列されてますが、誰のものかはわからない様です。宝篋印塔は鎌倉・室町期に造られたものが多く佐竹一族のものと推定されてます。佐竹義宣は関ヶ原の戦い後常陸に寄らずに直接秋田に赴任し、江戸期は御三家の水戸徳川家の領地になりましたので佐竹にとっては直接関与しにくかったのかもしれません。江戸期前半は転封は日常茶飯事であり、それに伴い菩提寺を移転したり、そのまま菩提寺として保護を続けるケースも散見されますが、本寺は移封後佐竹氏の手を離れ幕府が寺領を渡しました。 


水戸黄門の「助さん」で有名な佐々宗淳(さっさむねきよ)の墓もあります。水戸光圀公は晩年の十年、当地に隠居所(西山荘)を建てて大日本史の編纂を進めながら余生を過ごしましたが、格さんも彰考館総裁を務めた後光圀公に当地で近侍したようです。お墓は雑草で覆われ花も活けられて居らず、恐らく子孫の方はいないのかもしれません。柴田勝家と共に豊臣秀吉に抵抗し、臣従後肥後の国主となったものの国人一揆の責めを負い切腹した佐々成政の一門でした。 


中世の山城を散策するのが好きなのですが、佐竹北家の久米城は素晴らしい縄張りで築かれた堅城であり、深く切れ込んだ谷と幾つかの山上を連携させた戦略性高いものでした。分家とはいえ、流石佐竹の城との印象です。

 











麓の駐車場に車を停め中腹の鹿島神社経由本丸を目指して歩いてたら、草刈り機で道を整備していた初老男性に声を掛けられ話し込みました。聞くと長らく当城の登山路を整備されてる方で、わかりやすく順路の看板もつけられているとのこと。本丸の手前で一旦V字谷に降りて他の曲輪を立ち寄る様薦められましたが、結構息が上がって汗だくだった事もあり、早く本丸を見たい衝動にも駆られ丁重にお断りしました。山城は歩きにくい場所が多いですが、こういうボランティアの方々には頭が下がります。 


佐竹北家は秋田移封後角館に所領をもらい、小さな城下町ですが今でも美しい街並みを護ってます。角館は京から運ばれた枝垂桜が有名で、9年前に仙北市から贈られた苗木が順調に育っている様でした。

 






北家出身の佐竹秋田県知事は4期16年務められた後、昨年勇退されてます。

 


















主城太田城は久慈川支流の源氏川、里川に挟まれた南北に細長い丘陵地形を基本に縄張りされています。主郭が有った場所には小学校が有り、一国一城令の廃城後当時の面影を追うのは難しいものの、城域南端に建てられた若宮八幡宮からの見晴らしを見て城としての利便性や優位性が想像できます。




同社は関東管領上杉氏から婿養子で来た佐竹義人が鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀したものになります。佐竹氏も御多聞に漏れず同族間の争いは多かったですが、義人の入り婿に反対する分家の山入氏を中心とした主家との抗争が最も深刻なものでおよそ百年続きました。関東は応仁の乱よりも早く戦国時代が到来し、鎌倉公方家・関東管領家の両派を軸に戦乱が続きますが、均衡を破ったのが北条早雲(伊勢宗瑞)の伊豆・小田原侵攻でした。

 










佐竹当主の義舜は苦戦しながらも一族間の抗争を鎮める事が出来ました。その後歴代非凡な当主に恵まれたお陰で常陸54万石を秀吉から安堵され、義宣は拡大した領土のバランスを取るように本拠地を水戸に移しました。関ヶ原で義宣が苦渋の判断に迫られた事は十分理解できます。徳川家康と上杉景勝の対立構図はそれとして、信用に足らない伊達・最上の南進に備えつつ5倍の領地を持つ家康領と接する佐竹は、関ヶ原の結果如何で再び群雄割拠の時代に戻る事を想定し柔軟に動ける様考えていた事でしょう。結果は秋田への懲罰的減封でしたが、江戸初期で頻発した外様大名の改易処分を見ても水戸にそのまま居られる可能性は極めて低かったと思われます。秋田はコメの収量の他に、鉱山資源や北前船関連の経済貢献も大きかったですし、経緯からして徳川家への過度な忠誠心もなく奥羽列藩同盟から早い段階で外れる事が出来ました。

 








馬場八幡宮では前九年の役で源頼義が遠征時に立ち寄り戦勝祈願をし、石清水八幡宮を分祀し、義光が建てたと解説されてます。頼義の子孫(義家・義光)で、系図が略残っており、明治維新を大名として迎えたのは足利氏傍流の細川、甲斐源氏傍流の南部と小笠原、そして佐竹となりますが中でも佐竹が最も本流に近いと言えます。幾度の断絶危機を乗り越え、佐竹氏と太田城を護ってきたと考えるとご利益を感じざるを得ません。夏祭りの準備中の様です。


太田城丘陵の西岸の高台にある水戸光圀公のご在所跡の公園や、母・祖母の菩提を祀る久昌寺を訪れました。祖母とは家康の側室、「お萬の方」で紀州藩主頼宣と水戸藩主頼房の生母でした。光圀は生母「お久の方」の菩提寺として同寺を建立しましたが、明治維新後近隣から移されました。




両者の墓碑が並んで置かれており、光圀公の愛情が偲ばれます。

 








常陸太田から水戸まで20km程度の距離ですが、この辺りは常総平氏、佐竹、水戸徳川家の旧跡が混在してます。今回山城を3か所登っただけで足がふらついてしまいましたが、ペース配分を再考して違う角度で常陸の国を再訪したいと思います。

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