一字姓のドラマ ~伴さん、長さん、高さん~
- 6月18日
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日本の姓は漢字二字のものが多く、偶に一字姓が出てくると由来を調べたくなります。もっとも日本人の多くが何れかの姓に由来するとされる源平藤橘の内三つは一字姓ですし、森さん、谷さん、原さん等巷間一字姓は溢れており、それほど拘るテーマでは無いのかもしれません。

一方で、元々二字・三字の姓だったものが一字になったケースがあります。奈良時代に家持を始め公卿を輩出した大伴氏は、淳和天皇の諱(いみな、本名だが生前使う事を忌むもの)が大伴であった事からこれを忌避し、伴氏を名乗る事となりました。それから数十年後伴氏は応天門の変で失脚し、古代ヤマト王権から続く名門が零落するきっかけとなりました。国宝の「伴大納言絵詞」を見られた方は多いと思いますが、本作品は事件の300年後に後白河法皇が作成させたと考えられています。

公家としては零落しましたが、大隅の戦国大名として一時期島津氏と覇を競った肝付氏は伴氏の末裔を名乗りました。地方官として薩摩に下向しその後現地に土着したそうですが、頼朝や鎌倉幕府から地頭に任命されて土着した島津氏や伊東氏よりはかなり古い現地領主になります。島津や伊東は江戸期大名として存続しましたが、肝付氏は薩摩藩の上級家老として明治維新を迎えました。

能登の長氏は室町期は家老として能登畠山氏を支え、江戸期に入ると前田八家の一翼を担う重臣として小大名並みの3万3千石の家禄をもらい明治以降男爵となった名族です。始祖は長谷部信連、以仁王の挙兵に参加しましたが平清盛に捕らえれ、伯耆日野に流されました。

昨年は大山巡りのついでに、鳥取県日野町の信連関連旧跡を訪れました。信連は平家滅亡後頼朝にその功を認められ能登鳳至郡大屋荘の地頭に抜擢されましたが、以来子孫は姓を長と改め穴水城を拠点に中世・近世を生き抜きました。

穴水には長谷部まつりが夏に開かれており、今年は内藤剛志さんが信連公役で行列に参加するようです。金沢では戦後百万石行列として前田利家公の入部行列を再現してますが、こちらは鎌倉時代の入部で箔が違います。

京都国立博物館に収蔵されている重文の騎馬武者像は、永らく「足利尊氏」だと言われてきましたが最新の通説では高師直だそうです。

高氏は元々は高階氏であり、既に平安末期には高氏を名乗っていたらしいです。ヤマト王権の大王(おおきみ)はかつて親族間の抗争が激しく、時には次の皇統を誰に継がせるのか悩む事態に陥りました。一方政権が安定化すると皇族の数が増えすぎ、処遇や維持費用に悩む事態になります。適正な皇族数確保にどう取り組むかは昔も今も重要課題です。高階氏は、天武天皇皇子高市皇子を父とする長屋王の息子安宿王(あすかべおう、天武天皇曽孫で藤原不比等の孫)に臣籍降下に際し与えられました。

平安時代以降、臣籍降下で与えられる氏は源氏か平氏で統一されましたが、奈良期までは様々な姓(長岡、橘、在原他)が与えられていました。大凡源氏は天皇か親王の子息でそのまま降下するケース、平氏は親王か王の代で降下するケースで使われましたが、源氏は平氏より皇統に近いイメージを有しています。

高階氏は長らく中流貴族として目立たない存在でしたが、高階貴子が藤原道隆の正室として一条天皇中宮となった定子を生み、敦康親王が次期天皇として嘱望された頃短い我が世の春を迎えました。一昨年の光る君へでは板谷由夏さんが演じられてましたね。

上述高階氏は高と改姓し武家になりましたが、鎌倉期には既に足利家の執事として落ち着き、次期足利幕府での活躍に備えていたようです。悪役のイメージで名高い高師直は昨今再評価されつつあり、室町幕府初期の実務を担い南北朝争乱の尊氏を支えた実力者である事は間違いありません。35年前の「太平記」では、若い柄本明さんが演じられてました。

高師直とその一族は南朝を追い詰め、観応の擾乱を経て幕府内で最強の実権を握りましたが、ここまでは室町幕府の北条氏になりうる可能性がありました。その後師直は父の仇討ちを目指した上杉能憲により、一族郎党含めて殺されました。生き延びた高家の人材は引き続き幕府の執事として歴代将軍に仕えましたが、歴史の表舞台からは静かに消えていきました。

平安後期から多くなり過ぎた藤原氏は京の邸宅を横切る通りを名前にし、中世の武家は領有した土地の名前を姓として名乗りました。豊臣秀吉も柴田と丹羽を併せて羽柴と名乗ったわけですし、そういうレベル感では長谷部さんが長と名乗り、高階さんが高と名乗るのはそれほど違和感はありません。頼山陽の頼は今のところ由来は不明ですがどなたか知っている方がいれば教えてください。




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