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歴史と旅の記録


一字姓のドラマ ~伴さん、長さん、高さん~
日本の姓は漢字二字のものが多く、偶に一字姓が出てくると由来を調べたくなります。もっとも日本人の多くが何れかの姓に由来するとされる源平藤橘の内三つは一字姓ですし、森さん、谷さん、原さん等巷間一字姓は溢れており、それほど拘るテーマでは無いのかもしれません。 一方で、元々二字・三字の姓だったものが一字になったケースがあります。奈良時代に家持を始め公卿を輩出した大伴氏は、淳和天皇の諱(いみな、本名だが生前使う事を忌むもの)が大伴であった事からこれを忌避し、伴氏を名乗る事となりました。それから数十年後伴氏は応天門の変で失脚し、古代ヤマト王権から続く名門が零落するきっかけとなりました。国宝の「伴大納言絵詞」を見られた方は多いと思いますが、本作品は事件の300年後に後白河法皇が作成させたと考えられています。 公家としては零落しましたが、大隅の戦国大名として一時期島津氏と覇を競った肝付氏は伴氏の末裔を名乗りました。地方官として薩摩に下向しその後現地に土着したそうですが、頼朝や鎌倉幕府から地頭に任命されて土着した島津氏や伊東氏よりはかなり古い現地領主になりま
6月18日読了時間: 4分


家督は兄にお還し申す ~水戸黄門と畠山満慶~
古今東西家督相続の揉め事は数多く有りますが、長幼の序を重んじ弟から兄又は兄の子供に家督を還したのは水戸光圀と畠山満慶でした。 水戸黄門の放映が終了して久しいですね。放送開始は昭和44年だそうで40年以上も続いた長寿番組ですが、日本人の多く・・・特に当時のお父さん達は月曜の晩酌の御供でテレビを観て、印籠を出すシーンで溜飲を下げてました。週の始めは静かに勧善懲悪を楽しむのがいいと思いますが、リメイク再開を期待するのは自分だけではないでしょう。 水戸藩は徳川御三家の末弟、家康の11男頼房公が始祖で、光圀公は2代藩主となりますが次男になります。兄の頼重とは6歳違いで二人とも同じ母親(久昌院)から出生しました。兄は父頼房が堕胎を命じた為に家臣が公家の滋野井家で匿い、後年認知される事となります。 堕胎を命じた背景は、尾張・紀伊両藩を構える兄達(徳川義直、頼宣)に未だ世嗣が出来ない中で、末弟の自分が先に授かるのは宜しくないとの思慮が働いたものとされてます。六年後に生まれた光圀が生まれた際には既に尾張藩・紀伊藩には世嗣が誕生していましたが、再び頼房は堕胎を
6月12日読了時間: 4分


制外の家“越前松平家”の光陰
家康の次男結城秀康は小牧・長久手の戦い(1584年)の後豊臣秀吉の養子となりましたが、淀君が最初の子“鶴松”を産み、小田原征伐(1590年)の後に結城晴朝の養子になりました。秀吉は家康を取り込む為に妹(朝日姫)を輿入れさせ、加えて母親(大政所)を人質に差出しましたが、嫡子となってもおかしくない秀康を養子として所望したのはバランスを取る上で必然だったと思われます。 本来の嫡子信康は、今川氏一族出身の築山殿との子でしたが織田信長の指示により既に切腹(1579年)をさせられていました。築山殿は正室として秀康の生母を側室と認めず、家康は暫く実子として認知できませんでした。不憫に思った信康が家康と密かに対面させたという逸話も有ります。一方、秀康は双子で生まれ、弟は暫く母親の実家の知立神社の神職をしていたという逸話も残ります。 小牧・長久手の戦い当時、家康には秀康、秀忠、忠吉、信吉の四人の男子が居ましたが、一番年上の次男秀康が養子に出た為、三男秀忠が徳川家嫡男となりました。秀康は九州征伐で初陣を果たし、葛西大崎一揆の鎮圧や文禄・慶長の役、会津征伐とキャ
2025年11月25日読了時間: 5分


興福寺北円堂の運慶仏(東京国立博物館特別展) ~OCT,2025~
興福寺はそもそも藤原氏の氏寺であり、奈良時代から平安時代初期にかけて百年余りを要し造られた大伽藍でした。中でも北円堂は一番最初の建造物であり、奈良時代初期(養老年間)に藤原不比等の慰霊の為に建てられましたが、意外にも天平期の法隆寺夢殿よりも古い八角堂です。 ...
2025年10月8日読了時間: 4分


「べらぼう」をどう楽しもうか ~FEB,2025~
NHKという放送局は広く国民から視聴料を徴取しており、それだけ番組編成やドラマのテーマを含め、視聴者層への配慮に相当気を使われていると思います。今年の「べらぼう」は、江戸風俗と政治環境を並行しドラマにしたてており、脚本の技量に感銘を受けながら見てますが、一方でこの作品は見て...
2025年2月10日読了時間: 4分


石高詐称の三様 ~ 松倉勝家、真田信利、大沢基寿
中世下野を領した宇都宮氏は『光る君へ』で悪役を演じる藤原道兼の末裔とも言われており、前九年の役に源頼義に随い以後土着しました。戦国期の宇都宮国綱はじりじりと勢力を削がれる中、豊臣秀吉への臣従に活路を見出し奥州仕置の後下野18万石を安堵されました。ところが秀吉晩年の慶長2年(1597年)に突如改易となり、宇喜多秀家預かりの身になってしまいました。改易の理由ははっきりとせず、嗣子のいなかった国綱の後に養子を入れようとして出来なかった浅野長政の讒言によるものとか、検地で自領を過少申告していた事がばれたといった背景が従来言われてます。それまで気前よく部下に領地を渡していた秀吉は、朝鮮出兵も順調に進まない中で改易や減封の理由をあれこれ探していたのではと想像しますが、翌年上杉景勝を会津に移封しましたので、家康への牽制にはならず嗣子もいない大名は不要との判断だったのではないでしょうか。江戸期に入ると石高に応じて参勤交代の規模や普請時の貢献が決められ、石高が増えると費用負担増につながり、皺寄せが領民に及ぶ事になります。殿様の見栄で過大な税負担を強いられたケースを
2024年3月7日読了時間: 3分


頼朝ともう一つの一条家
保元の乱(1156)から承久の乱(1221)の65年間で、院政→平家→源氏→北条氏と目まぐるしく政権交代が起こりましたが、頼朝のお陰で時代の一翼を担った“摂関家でない”一条家が有りました。中御門流は、道長と明子(源高明娘)の間に出来た頼宗から始まる庶流でしたが、3代を経て受...
2024年2月26日読了時間: 3分


天文考古学~安倍晴明と藤原定家
現在放映されている『光る君へ』では安倍晴明をユースケ・サンタマリアが演じてます。かなり怪しげな容貌と役柄ですが、彼は陰陽寮という役所の官僚でした。邸宅は現晴明神社から近い土御門大路沿いに有った様でそこから20分程歩いて役所に通っていました。陰陽寮は4つの機能(陰陽道・天文・...
2024年2月23日読了時間: 4分


天然痘が変えた歴史~藤原四兄弟と実仁親王
日本で種痘の普及が始まったのは嘉永二年(1849年)、出島の蘭医モーニッケの接種が最初だそうでその後急速に普及しました。開明的な雄藩や、大坂の適塾がリードしましたが幕府もこれを公認し官立で種痘を始めました。佐賀藩鍋島直正侯は領民に積極的にこの摂取させる為に、先ずはわが子に接...
2024年2月19日読了時間: 4分


子だくさんの将軍と摂家当主~徳川家斉、二条治孝
徳川家斉公が子だくさんだったというのは有名な話なので知っている方は多いと思いますが、略同世代だった二条治孝も多いと知り、どっちが凄かったのか調べてみました。けして知識や教養を高めるものではございません。 11代将軍家斉(1773~1841)は将軍家に養子に入る際、実父(一橋...
2024年2月12日読了時間: 3分


醍醐家の親子の死と一つの日本近代史
終戦時の帝国海軍第六艦隊司令長官は、醍醐忠重侯爵でした。第六艦隊は主に潜水艦で構成されており、戦況が悪化する中1944年11月以降人間魚雷『回天』を投入し、終戦まで作戦行動を継続しました。同提督は45年5月に艦隊司令長官となり終戦を迎えたわけですが、既に稼働可能な潜水艦は9...
2024年2月8日読了時間: 3分


武士に転職した関白の息子 ~ 斎藤正義と鷹司信平
司馬遼太郎の小説を初めて読んだのは小学生の頃、父親が持っていた『国盗り物語』で、斎藤道三、織田信長の出世ストーリーと共に官能的な描写にしばし魅了されました。調べてみると、63年から66年にかけてサンデー毎日で連載されていたとのことで、成程朝刊での連載ではここまでの描写は難し...
2024年2月2日読了時間: 3分


跡取りの確保と両統迭立
国王であろうと将軍だろうとオーナー社長だろうと、自分の跡取りは子供から選びたいと思うのは人情です。皇統も例外ではなく、先ずは兄弟か直系子孫が後継者対象となりますが継承順位が定義されていない中では恣意的・政治的な選定プロセスとなります。武家政権では、例えば徳川家は過去の失敗例...
2024年1月31日読了時間: 4分


殺しあう公家の三様 ~ 清原致信、綾小路有時、唐橋在数
NHK大河ドラマ『光る君へ』では藤原兼家の次男道兼がまひろ(紫式部)の母ちやはを殺してしまい、衝撃的な展開で呆然としてしまいましたが、同時に違和感を覚えました。人の死に対する穢れの意識が強く、怨霊を恐れた平安時代で、上級貴族の子弟が自ら手をかけて人を殺した上に返り血を浴びた状態で自宅に戻るという設定は無理があるのでは、、、と。ドラマなので余り拘るところではないのかもしれませんが。因みに、紫式部の娘(大弐三位)は二度結婚しましたが、最初の夫は道兼の息子兼隆との説が有力です(ドラマで描かれるのかは不明です)。 清原致信は清少納言の兄、兄妹の父親元輔は三十六歌仙の一人で有名な歌人ですが、源頼親(摂津源氏)の郎党に斬殺されました。致信は当時道長四天王と言われた武勇を誇る家司の一人、藤原保昌の子分でした。保昌と頼親は、大和国で利権争いをしてましたが、致信は頼親の子分である当麻為頼の暗殺に関与し、その仕返しを受けました。致信が襲撃された際、同居していた清少納言は法衣を着てて性別がわかりにくい状況だったので、彼女は股間を見せて自分が女性であると証明し殺害を免
2024年1月25日読了時間: 5分


高島藩に配流され生涯を終える ~松平忠輝、吉良義周、水野忠篤
諏訪の浮城と呼ばれた高島城は美濃出身の武将、日根野高吉が北条征伐の手柄で領地をもらい築城しましたが、関ケ原の戦いの後、中世を通じてこの地を支配した諏訪家が戻ってきました。残念ながら諏訪湖の干拓で湖畔は遠くなり、水城の面影は無いですが、続日本100名城の一つとして城好きは立ち...
2024年1月17日読了時間: 3分


親子で同じ女性を妻にする話 ~ 対御方(たいのおんかた)と歌人伊勢
平安時代の貴人の親子関係を見ていると近親婚が散見され、異母兄弟姉妹の間ならばそれもありだったんだろうぐらいの感覚を持たざるをえませんが、親子で同じ女性を妻にするとなると流石に違和感を覚えます。妻問婚ゆえ倫理的なハードルも低く、余り大きな問題では無かったのかもしれませんが、和...
2024年1月16日読了時間: 3分


石高と人口で見える江戸期の日本
一人の人間が一年間で食べる米は一石として計算するのがいいと言われてますが、小生が愛読する『旧国名でみる日本地図帳』(平凡社)で見ると、天保年間で人口は約28百万人、石高で30百万国強とのことで、1.1石/人ぐらいで試算できます。石高は郷帳という、幕府が定期的に全国の村ごとの...
2024年1月14日読了時間: 3分


公家と武家との親戚付き合い~近衛家と島津氏、津軽氏
日本の中世と近世は、ある側面からは公家と武家の二重政権とも言えますが、例え実態は武家政権にあったにせよ、この二重構造は持ちつ持たれつで明治維新まで続きました。朝廷がその実質的な統治機能を失ったタイミングを仮に承久の乱(1221年)とすれば、明治維新(1868年)まで650年...
2024年1月12日読了時間: 3分


格好いい落馬と格好悪い落馬 ~ 井伊直政とルイ3世
古今東西落馬で亡くなられた方は数多くいますが、狩猟や戦場での事故のケースが多いようです。記憶に新しいところでは、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、相模川橋の落成供養の帰り道、安達盛長が手綱を取る中、頼朝は馬から崩れ落ちました。疾走していたわけではないとすれば、落馬は死...
2024年1月10日読了時間: 2分


風呂場は要注意 源義朝、頼家、太田道灌、ジャン=ポール・マラー
風呂場は無防備にならざるを得ませんが、やはり日本人は風呂好きなのか暗殺現場として好まれてます。義朝は平治の乱で敗れ東国に落ちのびる途上、家来筋の長田氏を頼り滞在中、入浴時に殺されました。京を脱出し3日間逃げ、馬を失い裸足で辿り着いた状況だったらしく、どうしても風呂に入りたか...
2024年1月9日読了時間: 2分
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