

佐竹はここから始まった 常陸太田 ~ JUL,2026 ~
関東平野は広いですが、茨城県北部まで来ると阿武隈山系から連なる山々が迫ります。佐竹は源氏出身ながら源平合戦ではなかなか頼朝に服従せず、西金砂山(にしかなさやま)の山上に籠り頑強に抵抗しました。最後は味方の裏切りで落城しましたが、その後奥州合戦で活躍し鎌倉幕府体制に組み込まれていきます。現在城跡には西金砂神社が置かれ、四百メートル強の山ですが急峻な坂道を上った山上の本殿からは常陸北部の山々の眺望が楽しめます。 この城は長らく佐竹氏にとって、詰城として維持されました。本城の太田城が優勢な敵に囲まれた時に籠城するための城になります。 佐竹氏の家紋は扇に月が配われてますが、奥州合戦時に頼朝と同じ白旗(源氏を示す)を掲げて紛らわしいとのことで、頼朝から白旗の上に扇を掲げるように言われたのが始まりだそうです。5月に秋田市を回遊し江戸期の佐竹の旧跡を回りましたが、佐竹を理解するには片手落ちだと感じ今回発祥の地を訪れました。関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康により秋田への転封を命ぜられましたが、常陸を領していたのは470年間であり江戸時代の270年間より
2 日前読了時間: 7分


破竹の快進撃はここから始まった 新田義貞と少し志村けん ~ JUL, 2026 東村山~
元弘三年(1333年)五月八日新田義貞は生品神社(群馬県太田市)で挙兵、五月二十二日東勝寺において北条氏を滅ぼし鎌倉幕府を打倒しました。たった2週間で四度合戦し、その間およそ130kmを駆け抜けました。 新田軍は旗揚げ時僅か150騎ばかりでしたが、越後・甲斐・信濃の源氏郎党が加わり、利根川を超えて足利高(尊)氏の長男“千寿丸”が軍に加わると更に陣営は増えました。鎌倉幕府は新田討伐軍を急遽編成し鎌倉街道を北上させましたが、結局新田義貞の鎌倉侵攻を許す事となりました。緒戦の2回は小手指原と久米川で行われたもので、現在所沢市と東村山市に跨る地域にあたります。 幕府を実質的に束ねる北条高時は、義貞挙兵の報が出た段階では本件がどこまで深刻なものかは理解できていなかったのかもしれません。2度の敗戦の報を受け、多摩川を鎌倉防衛の死守線として弟の北条泰家に大軍を授け、分倍河原で新田軍を迎え撃ちました。この3回目の分倍河原の戦いが事実上の決戦であり、大軍を擁した泰家は当初優位に戦いを進めましたが、結局義貞に止めを刺すことが出来ずに逆転負けを喫しました。
7月3日読了時間: 4分


一字姓のドラマ ~伴さん、長さん、高さん~
日本の姓は漢字二字のものが多く、偶に一字姓が出てくると由来を調べたくなります。もっとも日本人の多くが何れかの姓に由来するとされる源平藤橘の内三つは一字姓ですし、森さん、谷さん、原さん等巷間一字姓は溢れており、それほど拘るテーマでは無いのかもしれません。 一方で、元々二字・三字の姓だったものが一字になったケースがあります。奈良時代に家持を始め公卿を輩出した大伴氏は、淳和天皇の諱(いみな、本名だが生前使う事を忌むもの)が大伴であった事からこれを忌避し、伴氏を名乗る事となりました。それから数十年後伴氏は応天門の変で失脚し、古代ヤマト王権から続く名門が零落するきっかけとなりました。国宝の「伴大納言絵詞」を見られた方は多いと思いますが、本作品は事件の300年後に後白河法皇が作成させたと考えられています。 公家としては零落しましたが、大隅の戦国大名として一時期島津氏と覇を競った肝付氏は伴氏の末裔を名乗りました。地方官として薩摩に下向しその後現地に土着したそうですが、頼朝や鎌倉幕府から地頭に任命されて土着した島津氏や伊東氏よりはかなり古い現地領主になりま
6月18日読了時間: 4分






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