

父には及ばず 長篠城と設楽原 ~ JUL,2026 ~
東三河を縦に流れる豊川は宇連川(うれがわ)と合流した後、西に向きを変え三河湾に注ぎます。長篠城はこの二川の合流点に築かれたもので、500人の兵で1万5千の武田軍の猛攻を防ぎました。徳川家康と織田信長連合軍3万8千はその報を受け救援に駆け付け、武田勝頼は決戦を選び設楽原で会戦となりました。歴史にifはつきものですが勝頼が自重し国境を固め国力を養っていれば、織田家は武田・上杉のプレッシャーを受けつつ本能寺の変を迎えていたかもしれません。 本丸跡の平地はせいぜい100m四方でしょうか。その他縄張りを概観しても城兵が500人という規模は納得できます。二つの川が囲む数十メートルの断崖は攻城容易ではなく、武田軍は強襲策を控え複数の砦で囲み、兵糧攻めで或る程度時間をかける意図だったようです。 断崖の反対側は丘陵地帯で、大通寺に馬場信春をはじめとする有力諸将が布陣しました。長篠城を見下ろし、川の対岸にある自軍砦との連絡も取りやすい場所です。 信玄が育てた古参諸将は、信長・家康連合軍の到来に際し勝頼に撤収を献策しましたが拒否され、出撃前に別れの盃を井戸水で交わし
1 日前読了時間: 7分


佐竹はここから始まった 常陸太田 ~ JUL,2026 ~
関東平野は広いですが、茨城県北部まで来ると阿武隈山系から連なる山々が迫ります。佐竹は源氏出身ながら源平合戦ではなかなか頼朝に服従せず、西金砂山(にしかなさやま)の山上に籠り頑強に抵抗しました。最後は味方の裏切りで落城しましたが、その後奥州合戦で活躍し鎌倉幕府体制に組み込まれていきます。現在城跡には西金砂神社が置かれ、四百メートル強の山ですが急峻な坂道を上った山上の本殿からは常陸北部の山々の眺望が楽しめます。 この城は長らく佐竹氏にとって、詰城として維持されました。本城の太田城が優勢な敵に囲まれた時に籠城するための城になります。 佐竹氏の家紋は扇に月が配われてますが、奥州合戦時に頼朝と同じ白旗(源氏を示す)を掲げて紛らわしいとのことで、頼朝から白旗の上に扇を掲げるように言われたのが始まりだそうです。5月に秋田市を回遊し江戸期の佐竹の旧跡を回りましたが、佐竹を理解するには片手落ちだと感じ今回発祥の地を訪れました。関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康により秋田への転封を命ぜられましたが、常陸を領していたのは470年間であり江戸時代の270年間より
7月12日読了時間: 7分


破竹の快進撃はここから始まった 新田義貞と少し志村けん ~ JUL, 2026 東村山~
元弘三年(1333年)五月八日新田義貞は生品神社(群馬県太田市)で挙兵、五月二十二日東勝寺において北条氏を滅ぼし鎌倉幕府を打倒しました。たった2週間で四度合戦し、その間およそ130kmを駆け抜けました。 新田軍は旗揚げ時僅か150騎ばかりでしたが、越後・甲斐・信濃の源氏郎党が加わり、利根川を超えて足利高(尊)氏の長男“千寿丸”が軍に加わると更に陣営は増えました。鎌倉幕府は新田討伐軍を急遽編成し鎌倉街道を北上させましたが、結局新田義貞の鎌倉侵攻を許す事となりました。緒戦の2回は小手指原と久米川で行われたもので、現在所沢市と東村山市に跨る地域にあたります。 幕府を実質的に束ねる北条高時は、義貞挙兵の報が出た段階では本件がどこまで深刻なものかは理解できていなかったのかもしれません。2度の敗戦の報を受け、多摩川を鎌倉防衛の死守線として弟の北条泰家に大軍を授け、分倍河原で新田軍を迎え撃ちました。この3回目の分倍河原の戦いが事実上の決戦であり、大軍を擁した泰家は当初優位に戦いを進めましたが、結局義貞に止めを刺すことが出来ずに逆転負けを喫しました。
7月3日読了時間: 4分






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