

ヤマトの北限 秋田 ~MAY,2026~
秋田市郊外にある大森山展望台は僅か標高124mの低山の頂に有りますが、北は男鹿半島から秋田市内を一望できます。南方向には遥か雪を頂く鳥海山を臨み、大パノラマを楽しめますがそれだけ雄物川が開いた沖積平野が広いという事でしょう。 関ヶ原の戦いの後に秋田への転封を命ぜられた佐竹義宣は、京から水戸に寄らず直接新任地に向かいました。明らかな左遷で不本意だったと思いますが、湯沢の峠を越えて肥沃な土地を見て“ご機嫌が治った”事から御機嫌坂と名付けられたそうです。 日本書紀では崇神天皇が四人の皇族を将軍に任じ、東海・西海・高志(越)・丹波を征服させたとあり、この内北陸道に兵を進めたのが大彦命(おおひこのみこと)で崇神帝の伯父にあたります。以来ヤマト朝廷は奈良時代まで北への領土拡大を目指し天平五年(733年)に秋田城を築きました。 近くの古四王神社には武甕槌神(タケミカヅチ)と大彦命が祀られてます。前者は国譲りの直談判をし神武東征にも貢献した鹿島神宮の主祭神、後者は実際には新潟県北部くらいまでは来たと思われる日本海側征服のヒーローです。社伝では当社は7世紀に
22 時間前読了時間: 7分


ついに四国のお遍路へ(一番~十番) 徳島 ~ APR,2026 ~
昨年同時期に親族の結婚式で徳島を訪れた折、そろそろ八十八箇所霊場に着手したいと思いました。余りにも著名な巡礼地でもあり(車で回るにしても)ハードな行程だと感じてましたので、それなりに心の準備をしつつ再訪しました。四方見(よもみ)展望台からは四国と淡路島を結ぶ大鳴門橋、振り返ると鳴門から遠く徳島の市街地が見え、名前の通り360度絶景が楽しめます。 十年以上前に坂東三十三観音霊場を一年余りかけて回りました。当時は未だ多忙な現役部長だったので、ゴルフの無い土日を利用しながら数回に分けて訪れました。“結願(けちがん)”の印を頂いた達成感も有り、那古観音から眺めた安房館山の海は格別美しく感じられました。 徳島(阿波)と館山(安房)は古代密接に繋がっていたと言われており、阿波を拠点とした忌部氏(いんべし)は黒潮に乗り房総半島に上陸し開発を進めたと考えられてます。阿波一の宮である大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)と、安房一の宮である安房神社は共通の主祭神(天太玉命 - あめのふとだまのみこと)を頂きます。忌部氏は麻布・木綿の製造に秀でていたらしく神社の名前に
4月26日読了時間: 7分


光秀は京に向かった 丹波の入り口亀岡から園部へ ~ APR,2026 ~
丹波亀山は、明治になり亀山という地名が全国で多くて紛らわしいとの理由で亀岡に変えられたそうです。山から岡に代わったくらいでたいした変更ではないかもしれませんが、丹波亀山城という響きで本能寺の変を連想してしまう戦国ファンの方には違和感は残ると思います。丹波の国は京都府と兵庫県に跨る横長の長方形で、亀岡は京の入り口にあたり京都駅から各駅停車で30分弱で着きます。 保津川下りの死亡事故が起きたのは丁度3年前になります。亀岡駅近くの渡船場から2時間くらいかけ嵐山の渡月橋近辺に向かうものですが、この急流を船で移動できるようにしたのは江戸初期に活躍した角倉了以でした。彼は人工運河の高瀬川も造り、瀬田川も整備し京を中心とした水運物流に多大な貢献をしました。因みに保津川は嵐山に入ると大堰川(おおいがわ)と呼ばれ、その後桂川となり鴨川と合流し淀川に流れこみます。 今回亀岡の訪問地を地図で確認していた際、古代由来の神社・寺院はすべて盆地を取り巻く高台に並んでいる事に気づきましたが、古代は大きな湖(丹波湖)が有ったようです。大きな盆地は南寄りの市街地を除き長閑な
4月9日読了時間: 9分






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